夢は大きく歩みは手堅く

トリハダ代表 野島優一のブログ

1つのことをやりきることの大切さ

に改めて気づく日々です。

毎度ハッとさせられるメタップス佐藤航陽さんのツイート。

インターネットの発展をベースに個人でできることが圧倒的に増えた現代。いや今もすごい勢いでそれが増え続ける現代。何か勉強しようと思えばいくらでも情報が手に入るし(例えばプログラミングの知識や情報はウェブ上に無限にあるし、有名人のブログもツイッターもほとんど見放題)、やりたい事業アイデアがあればお金の工面の仕方も一昔前より圧倒的に増えているし(ベンチャー企業への投資家や投資件数は大きく増えたし、クラウドファンディングもあればnoteのような投げ銭システムもある)、転職もどんどんしやすい世の中になっている。個人の生き方というか仕事のしかたにおける選択肢は増える一方で、他にも例を挙げればたくさんあると思います。

そんな時代だと、つまみ食いで終わってしまうこともたくさんあります。僕の場合はプログラミングがそうで、興味あるのにちょびちょびかじっただけでここまで来てしまいました。結局大したものは身についていません。それでも全くやらない状態に比べたら、それがどういうものなのか、どういう仕組なのか、どうやって学ぶのか、はなんとなくわかっているのでマシかもしれませんが、仕事に使えるレベルにはなっていない。となると、そうやって途中で投げずに1つのことをやり続けた人の方が他人から求められるようになっていく気がします。

水江未来さんというアニメーション作家がいます。いわゆる「アニメ」と呼ばれるものとは少し異なった、現代アートみたいな形で紹介されるタイプの作品を作っていらっしゃいます。作風は結構サイケデリックというか、色とりどりに細かく描き込まれた幾何学模様や細胞みたいなものが画面いっぱいに動き回り、色も動きも目がチカチカするくらいの様相です。この人の作品が好きで少し前に上映会に行ってきたのですが、その時のトークが印象に残っています。

曰く、水江さん本人も、作品を観ていると「目がチカチカする」し、「必ずしも100%快楽ではない」のだそうです(笑)。しかもかなり絵柄が細かい上にコマ割りも細かいので、制作は「憂鬱なくらい大変」だと(笑笑)。じゃなんでわざわざそんなもの作るんだ、やめればいいじゃないかと言いたくなるところですが、それでもやるのは「アニメーションに魅せられたから」であり、完成すると「うわ~ヤバいのできちゃった~」と「ゾワゾワする」からなのだと。

1つの作品にかける時間と労力が異常なくらい多くて大変だからこそ見える景色があるのだと思います。この人は10年以上アニメーションをやっているそうなので、その意味でもすごいレベルに達しているのだと思います。

もう1つ別の例を挙げます。少し前に渋谷のstatementsというアートスペースである本が発行されました。それは昔のある1人のアートファンの男性による、執拗なまでの展示記録をまとめたものです。

1963年、西山輝夫は親友と訪れた展覧会「第15回 読売アンデパンダン」に衝撃を受けて以来、フルクサスやネオ・ダダイズム・オルガナイザーズなど前衛芸術の展覧会に一人で足しげく通うようになりました。熱狂的な美術ファンになった西山は、美術業界の人とは一切関わりを持たずに、当時の中でも最も過激で気鋭な芸術活動を追いかけ、詳細なメモを取り、配布物を収集し、展覧会の全ての作品を撮影するという方法によって記録を残しました。その後、東京を離れ岡山県へ転勤することになった西山は、2年間撮り貯めた記録を独自の方法によってスクラップブックにまとめ、その稀有な記録を個人的に保管していました。西山の残した記録のいくつかは、偶然にも他に資料が残されていないという理由からも、現在では美術史にとっても重要なものとなったのです。

 別に自身が美術作家なわけでもなければ、美術業界の人でもない。それでも1つのことに取り憑かれたように取り組んでいくと後々すごい価値を生むものになったりすることもあるのですね。実際この本を見させてもらいましたが貴重な資料と熱のこもった手書きコメントで埋め尽くされていて圧倒されました。すごく面白かった。高いから買わなかったけど。

もちろんこれはたまたま高い評価につながった例でしかなくて、ほとんどのことはこんな結果にはならないのかもしれません。でもこういう事例があるのも事実。1つのことをやりきるというのは良い結果を生むための十分条件では決してないけれども、必要条件ではあると思うのです。

自分の状況を省みると、結果が出ないからと浮足立ってしまって、すぐに次のこと、新しいことをやりたくなってしまうことが多いです。それ自体が悪いことなわけではなくて、むしろそれはそれで大事なことなわけですが、むやみに目移りしてはいけないなと。1つ1つをある程度まではやりきって、それなりに結果を見てから次のステップを考えるようにしようと思います。

 

うーん、ちょっと論旨がブレた感。。。

 

 

 

文章書くのも書き方によっては1つのキュレーションだなと思った話

DeNAの運営していたエセ「キュレーション」メディアの問題のおかげで悲しいことにかなりのマイナスイメージが付いてしまったと思われるキュレーションという言葉があります。もともとはたしか美術および芸術の世界から出てきた言葉で、美術に関する専門知識を持った専門家が、美術史の流れや最近の芸術における動きを踏まえ、その時々において意義のある展示を企画する仕事のことを指しています。それをやる人をキュレーターと呼びます。

と書いてみたものの僕もまだまだキュレーションって何なのかを勉強している段階であまり詳しいことはわかりません。ただ、単に好きな作家や作品を選んで好きなように並べて展示するのではなく、いろいろな背景や流れを踏まえ、それぞれの作家や作品の位置づけを踏まえ、その展示の意図がもっとも伝わる、あるいは作品の価値が鑑賞者にもっともよく伝わる展示形式なり順番なりで展示を作っていくわけです。(それは膨大な見識を踏まえてこそできる仕事なので素人にできるものではなく、その意味でDeNAが運営していたエセ「キュレーション」メディアの記事の多くはキュレーションではないただのコピペ記事だったことを書き添えておきます。キュレーションという言葉の価値を守るために。)

で、実はそれって音楽の世界のDJも似たようなことをしているのです。彼らはただ単に好きな曲を好きなように流しているわけでは必ずしもない。もちろんそういう人もいると思いますが、それだけだとなかなか聴衆は盛り上がらないらしいのです。過去の様々な音楽に関する知識と経験を踏まえつつ、アホみたいな数の曲からその場やテーマにふさわしい曲を選び(テイ・トウワというミュージシャン/DJは「これだという1曲を見つけるために、100や200の楽曲を聞くのが僕の仕事」とインタビューで答えています)、もっとも聴衆が盛り上がる流れでプレイしていくわけですね。これは音楽のキュレーションだと僕は思っています。

そしてブログを時々書くようになってから思ったのですが、文章を書くのもある種のキュレーションだなと。

いや正確に言うと僕がそういうタイプの文章をブログで書いているというだけかもしれません。僕の場合はあちこちで読んだり見聞きしたりしたことが繋がったときに、それを忘れないためと自分の頭を整理するために、その繋がったいくつかの情報を整理して書き留めています。過去の記事を見てもらうとよくわかると思います。それって、1つのテーマ(複数の情報に共通しているメッセージなり見解なりそういうもの)に沿っていくつかの情報をわかりやすく並べて書いているので、ある種のキュレーションだなと思ったのです。

類似した見解や事象を集めて、整理して書く。しかも一方的な書き方をしても読み手に伝わらないから、なるべく伝わりやすいように、そして読みやすいように書く。

これ、続けていけば人に物事を説明するのがうまくなったり、将来別の分野で生きてきたりするかな、とちょっと期待しつつ。

 

 

 

 

新しくたくさんの人と出会っているか?

自分の日々の活動が良い状態にあるかどうかの判断基準のひとつとして、新しい人と知り合っているかどうかというのがあります。

ずっと同じ人とばかり活動するのも悪くないけど、新しい人と出会わないよりは出会った方が、自分の世界も活動の幅も広がっていいなと思っています。特にいまは会社員を辞めて、完全に新しい業界で新しいことを始めている状態なので、新しい人との出会いが多くて当たり前。出会いがなかったら活動がイケてないことになってしまいます。

僕は新しく出会った人とはどんどんfacebookでつながるタイプなので、facebookの友達の数が増えているか止まっているかでそれが常にわかってしまいます。よくも悪くも。

昔、日本企業向けに外国人採用の仕事をしていた時は、仕事の中で星の数ほどの外国人学生と関わっていて、直接会ったり遊んだり人もたくさんいたので、友達がどんどん増えていきました。学生時代も大きなサークルで活動していたし、海外のイベントにも言ったりしていたので、友達が増え続けるのが自然な状態でした。

転職してからはそういう仕事ではなくなったのでペースが落ちました。代わりに会社外のコミュニティにも顔を出すようになったので、それまでと違うタイプの人と、少しずつですが出会っていました。

独立に向けて動き出してからはアート周りの人と知り合う機会が増えました。今もどんどん出会っています。

アートにこだわるのか、ただ面白いことがやりたいだけか

最近は、東南アジアでアート系の活動をしている人と知り合う機会が増えています。とてもありがたいし面白いことです。たくさんの刺激とアイデアをもらっています。みんな起業家精神もたっぷりです。 

その中で何人かに共通していたのは、アーティストと呼ばれる人や関連の活動をしている人たちが、必ずしも自分をアーティストと思っていたり、アートをやっていると思っていたりするわけではないということです。

ある人たちは「ただ自分たちが面白いと思うことをやっているだけ。アーティストとして扱われるのはよくわからない」と言っていました。ある人は「アートより友だちを作る方が大事だよ。たくさん友達を作れば自然と活動や仕事が生まれる」と言っていました。ある人は「社会課題の解決の手段としてアートをやっている。直接的な活動ではなく間接的な働きかけだが、それが面白い。アーティストと呼ばれてもいいし呼ばれなくてもいい。むしろグレーな立ち位置がいい」と言っていました。

僕の好きな落合陽一は以前twitterで「これはアート的とかこれはアート的ではないとか言っている人は、いったい何をこじらせているの?」というような発言をしていました。

立て続けにこういう意見に触れて自分についてもよく考えるようになった結果、アートだからいいとか、アートじゃないからダメとか、そういう判断基準は僕は好きじゃないと思いました。いいものはいい、ただそれだけなんだろうな、と。

別にアートっぽくてもつまらないものはつまらないし、世の中を変えるものもそうでないものも両方ある。アートっぽいからいいわけではない。一方でアートっぽくなくたって面白いものは面白いしすごいものはすごい。

 

アートをやりたいのか?

面白いことをやりたいのか?

自分が取り組むものとしては、前者の感覚だと思ってきたし、アートにつながらない仕事はあまりやらないようにしてきました。けど、変にこだわるのもよくないなと思い直したり。

そもそも僕がアートをやりたいと思うのは、アートが面白いと思うからです。となると、なるべくなら両者が重なる領域で活動したいものです。

 

ついでに言うと、もともとはアートとは別領域のものでも、極めると「これはもはやアートだ」と言われたりしますね。あれもあれでいいなと思います。

勉強やリサーチはノーリスク

僕は比較的勉強やリサーチをたくさんやるタイプです。なぜならノーリスクで知見が得られるからです。

例えば何かモノを買うときは、ネットで似たような商品を探して料金を比較したり、メルカリやジモティーで中古品が安く出ていないか探したり。いまはレビューもいろいろなサイトで見られますよね。

何か買うときにほんの1時間でも20分でも、場合によっては1分でも検索することで、定価10,000円のものが中古で5,000円で買えたりするわけです。1時間かけたとしても5,000円得したら時給5,000円という計算になります。こんなにお得なことはないですよね。

昔ならリサイクルショップを時間と体力を使って回る必要がありましたが、いまなら大半のものはネットで探せるので簡単です。

それから勉強もそう。わかりやすい例が読書ですが、世の中には本をたくさん読む人とそうでない人がいます。一度読書の価値に気づけばたいていの人はそれなりに読むようになると思いますが、読まない人もいます。でも読書も、費やすのは時間だけ。お金もかかりますがこれもAmazonで古本買えば激安で、送料込み1冊250円くらいの本すら大量にあります。

読書することで時間を失う以外にデメリットがあるかというと特にないわけです。それなのに本によってはものすごく濃い情報や知見が詰まっていて、そのあとの自分の人生を良いものにしてくれたりするわけです。さらに読めば読むほど本を選ぶのもうまくなるので、無駄な読書が減って濃い読書が増えていきます。得の方が圧倒的に大きい。

でも世の中、いちいち何か調べたりたくさん本を読んだりする人は多くない。きっとみんな面倒くさいんでしょうね。そういうものなんだと思います。ということは、それをちょっとでもやる人にはすごく有利な世の中なわけです。

僕は勉強もリサーチも時間とってやっていこうと思います。ノーリスクハイリターン。いや、さすがにミドルリターンくらいかな。

 

 

 

ARCというチームを作りました。先端技術を芸術分野に開放し、そこで生まれた作品や表現を社会に届ける活動をします

【技術 x 芸術 → 社会 みたいな活動を始めました】(書いてみて、まだ全然まとまってないなと気づきました…僕ってもっと文章うまかった気がするんだけどなぁ気のせいかなぁ。けどとりあえず書きます。随時アップデートしていきます)
ARC(アーク)というチームを友人の Kenji Esaki と Kaho Ikeda と作りまして、先端技術をアーティストに使ってもらう → 新しい表現や作品が生まれる → それを社会に届ける、というようなことをしています。
先端技術というのはまずVRからやっています。アーティストでVRに興味を持っている人もちらほら出てきていますが、
「どこに行けば使えるのかわからない」
「自分では高くて買えないし、周りに持っている人もいない」
そもそも買えるの?」
みたいな人がほとんど。でも、人によってはVRですごく面白いものが作れたりするかもしれないですよね。つまり使う機会がないのはもったいないですよね。じゃぁ持ってる側が使う場を提供したらいいですよね。
"Artist x Technology"と題して、いまのところメンバーの知り合いの若手作家さんに試しに使ってもらう場を作っています。うまくフィットしたら軽めの展示機会も作ったり。
"社会に届ける"ための具体的な活動としては、小規模ながら展示をやったり、教育施設やイベントで体験ブースを出したりしています。直近だと7/22に武蔵境の武蔵野プレイスというところでイベントに出ますお楽しみに。自分の目的である「アートをもっと身近にする」という点ともかなり重なります。とはいえこの部分はまだまだこれから。
ただ単にテクノロジーを使ったアートをやる!でもなく、アートを楽しむ場を作る!だけでもなく、テクノロジーに触れる場を作る!だけでもなく。全部合わさっています。
あと、これは有志で放課後にやっているプロジェクトです。お金にもなっていないです。将来的にどういう形にするかは常に考えつつ、いいからとりあえずやろうぜマインドでやっています。とにかく最初は行動してみること。
当たり前ですがメンバー3人とも本業があるので、人手がどうやっても足りません。特にエンジニア!直近だと、できればVRわかってるエンジニア!にお手伝いしてもらいたくて喉から手が出まくっていてオエオエ言っています。興味ある方はご連絡ください。あくまで仕事外で余力のある方。もちろんエンジニアでなくてもリサーチを手伝ってくれる人とか記事書いてくれる人とかもとてもありがたいです。
参加者や関係者のネットワークを築いていくことも大きな目標です。時間はかかると思いますが、技術や芸術に関心があり、かつそれを社会に開くことに意義を感じる人の集まりですね。
この活動でどれだけの価値を生めるかはまだわかりませんが、可能性はすごく見えています。3人とも本業じゃないどころかお金にもならないのに異常なほどモチベーションが高く、そして異常なほど仲が良く、会うたびにこんなにワクワクするメンバーは貴重だなぁと感じています。僕は人には恵まれているらしいです。感謝感謝です。
ということで、昨年立ち上げたトリハダという事業/会社はまだまだ全然芽が出ておりませんが、自分の関心に近くて意義を感じることはどんどんやろうということで、こんな活動も始めました。よろしくお願いします。
あ、ウェブサイトは準備中です。

最後に評価されるのは技術でもプラットフォームでもなく中身、コンテンツそのもの

本やインタビューで見聞きした話のいくつかがつながったので書き留めておきます。

 

あるものに対する評価の対象として、技術あるいは手法と、中身あるいはコンテンツの2つが大きくあるとすれば、最後に評価されるのは技術あるいは手法ではなく、中身あるいはコンテンツの面白さ/良さそれ自体になっていくという話です。これはビジネスにおいてもエンターテインメントにおいても同じだと思います。

 

1.真鍋大度さん (Rhizomatiks)

この話を一番最近聞いたのはRhizomatiks真鍋大度さんのトークイベント。2017年1月14日、その時に作品の展示を行っていたNTTのICCで、同社の石橋素さん、同じ企画展に参加していたドイツのART+COMのYussi Angeslevaさん、ICCの畠中実さんのトークイベントがあり、その中での発言でした。

仕組みだけで感動する時代から、よりPoeticなものに感動する時代へ変わってきている

ということらしいのです。具体的には、仕組みというのは技術的なレベルの高さのことを指していました。ハードウェア、ソフトウェアを問わず、これまでは技術的なレベルの高さだけでも感動を生むことができた、と。

しかし最近ではそうではなくなってきていて、Poeticさが求められるようになってきているのだそうです(ちなみにPoeticとは、詩的であること、ストーリーがあること、を意味します)。Poetic Computingという言葉も存在するくらい、ただすごい技術ですごい仕組みを作っても、もう人は感動しない、詩的なものである必要がある、とのことです。 

 

2. 落合陽一 (メディアアーティスト。つくば大学助教)

2つめは落合陽一さんです。2015年11月27日発行の著書『魔法の世紀』において彼は、「コンピュータが売れ終わり、プラットフォームの拡大が成熟しきったときに、最も強くなるのがコンテンツ産業なのは明白」と書いています。

また、2015年の六本木アートナイト内で開かれたトークイベント「六本木ダークナイト」では、「僕は今プログラミング能力のおかげでメシが食えている。でもプログラミングのハードルはどんどん下がっていくから、誰もが僕と同じプログラミング能力を手にする日が来る。そうなったときにどうすればよいか?」という疑問というか不安を話していました。ちなみにこのトークイベントは真鍋大度さんがオーガナイズしたそうです。

要するに、コンピュータを買うこと、使うこと、あるいはそのためにプラットフォームを使うこと、あるいはプログラミングをすること、というのは、どんどんハードルが下がり、いずれは万人にとって手の届くものになるわけです。例えばPCやスマホは、同じ性能の商品は年々安く手に入るようになっています。

そうして個人間の技術的な優位/劣位の差がなくなったときに、勝負を分けるのはコンテンツだろう、という話なのだと思います。

そしてそのコンテンツにおいてとても強いプレイヤーの例がディズニーであり、そのディズニーは技術的な優位性もかなり獲得していることから、「今コンピュータテクノロジーにおいて最強のプレイヤーはディズニー」と、前出の著書で落合さんは書いています。なお同社はコンピュータサイエンス等のラボラトリーを6つ持っていて、「本気でコンピュータサイエンスにテコ入れして」いるそうです。彼らは技術とコンテンツの両方を抑えているわけですね。短期的な優位と長期的な優位をともに獲得しているといえます。

 

3. 千房けん輔 (exonemo)

3つめは、2015年3月30日に出た、カルチャー系メディアCINRA.NETのインタビューで話している、exonemoの千房けん輔さんです。重要な部分を引用します。

先端的なテクノロジーを扱うジャンルがメディアアートだったわけだけど、作品にコンピューターを使うことが普通になってきているので、最終的にメディアアートは現代美術にならざるをえないと思います

最近はコンピューターを使う現代美術の作家も増え、現代美術の側もメディアアートの領域に入ってきてる気がするし。メディアアートと現代美術の境界がぼやけていると思います

真鍋さんや落合さんに日本での知名度は劣るかもしれませんが、exonemoは日本人のメディアアーティスト(2人組)の中ではおそらくかなり有名で世界的にも評価が高く、またこのインタビュー記事でもわかるようにだいぶ前から活動されています。インターネットが出始めたころからそれを使って制作をしてきたアーティストです。

先端的なテクノロジーを扱うジャンル」、つまり技術的なレベルの高さがひとつの売りだったのがメディアアートだが、どんなアートでもコンピュータを使うようになってきているので、メディアアートというくくり方をするのが難しくなるだろう、と。

つまり、アートの分野において技術的な優位性を持っていたのがメディアアートだが、社会における技術レベルが上がるのに伴ってアートの分野においても技術レベルが上ってきているので、メディアアートがそれ以外のアートに対して持っていた技術的な優位性が弱まっているわけです。

そうすると、メディアアートという言葉で他のアートと区分するのが難しくなる、と。また、明言はされていませんが、それによって、これまでメディアアートとして、つまり技術的なレベルの高さを売りにして制作をしてきたアーティストも、それが通用しなくなる、ということだと思います。これも明言はされていませんが、そうなったときに作品の評価を分けるのは結局中身というか、技術レベルとは関係ない作品そのものの面白さや美しさになってくるのだと思います。

 

 

以上、メディアアーティストと呼ばれる3人の発言が繋がったのでメモしておきました。技術だけで優位性が保てるのはしばらくの間だけで、中身が勝負になるタイミングがいずれ来る、と。これはアートもそうだしビジネスも全くその通りだなと思います。