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夢は大きく歩みは手堅く

トリハダ代表 野島優一のブログ

最後に評価されるのは技術でもプラットフォームでもなく中身、コンテンツそのもの

本やインタビューで見聞きした話のいくつかがつながったので書き留めておきます。

 

あるものに対する評価の対象として、技術あるいは手法と、中身あるいはコンテンツの2つが大きくあるとすれば、最後に評価されるのは技術あるいは手法ではなく、中身あるいはコンテンツの面白さ/良さそれ自体になっていくという話です。これはビジネスにおいてもエンターテインメントにおいても同じだと思います。

 

1.真鍋大度さん (Rhizomatiks)

この話を一番最近聞いたのはRhizomatiks真鍋大度さんのトークイベント。2017年1月14日、その時に作品の展示を行っていたNTTのICCで、同社の石橋素さん、同じ企画展に参加していたドイツのART+COMのYussi Angeslevaさん、ICCの畠中実さんのトークイベントがあり、その中での発言でした。

仕組みだけで感動する時代から、よりPoeticなものに感動する時代へ変わってきている

ということらしいのです。具体的には、仕組みというのは技術的なレベルの高さのことを指していました。ハードウェア、ソフトウェアを問わず、これまでは技術的なレベルの高さだけでも感動を生むことができた、と。

しかし最近ではそうではなくなってきていて、Poeticさが求められるようになってきているのだそうです(ちなみにPoeticとは、詩的であること、ストーリーがあること、を意味します)。Poetic Computingという言葉も存在するくらい、ただすごい技術ですごい仕組みを作っても、もう人は感動しない、詩的なものである必要がある、とのことです。 

 

2. 落合陽一 (メディアアーティスト。つくば大学助教)

2つめは落合陽一さんです。2015年11月27日発行の著書『魔法の世紀』において彼は、「コンピュータが売れ終わり、プラットフォームの拡大が成熟しきったときに、最も強くなるのがコンテンツ産業なのは明白」と書いています。

また、2015年の六本木アートナイト内で開かれたトークイベント「六本木ダークナイト」では、「僕は今プログラミング能力のおかげでメシが食えている。でもプログラミングのハードルはどんどん下がっていくから、誰もが僕と同じプログラミング能力を手にする日が来る。そうなったときにどうすればよいか?」という疑問というか不安を話していました。ちなみにこのトークイベントは真鍋大度さんがオーガナイズしたそうです。

要するに、コンピュータを買うこと、使うこと、あるいはそのためにプラットフォームを使うこと、あるいはプログラミングをすること、というのは、どんどんハードルが下がり、いずれは万人にとって手の届くものになるわけです。例えばPCやスマホは、同じ性能の商品は年々安く手に入るようになっています。

そうして個人間の技術的な優位/劣位の差がなくなったときに、勝負を分けるのはコンテンツだろう、という話なのだと思います。

そしてそのコンテンツにおいてとても強いプレイヤーの例がディズニーであり、そのディズニーは技術的な優位性もかなり獲得していることから、「今コンピュータテクノロジーにおいて最強のプレイヤーはディズニー」と、前出の著書で落合さんは書いています。なお同社はコンピュータサイエンス等のラボラトリーを6つ持っていて、「本気でコンピュータサイエンスにテコ入れして」いるそうです。彼らは技術とコンテンツの両方を抑えているわけですね。短期的な優位と長期的な優位をともに獲得しているといえます。

 

3. 千房けん輔 (exonemo)

3つめは、2015年3月30日に出た、カルチャー系メディアCINRA.NETのインタビューで話している、exonemoの千房けん輔さんです。重要な部分を引用します。

先端的なテクノロジーを扱うジャンルがメディアアートだったわけだけど、作品にコンピューターを使うことが普通になってきているので、最終的にメディアアートは現代美術にならざるをえないと思います

最近はコンピューターを使う現代美術の作家も増え、現代美術の側もメディアアートの領域に入ってきてる気がするし。メディアアートと現代美術の境界がぼやけていると思います

真鍋さんや落合さんに日本での知名度は劣るかもしれませんが、exonemoは日本人のメディアアーティスト(2人組)の中ではおそらくかなり有名で世界的にも評価が高く、またこのインタビュー記事でもわかるようにだいぶ前から活動されています。インターネットが出始めたころからそれを使って制作をしてきたアーティストです。

先端的なテクノロジーを扱うジャンル」、つまり技術的なレベルの高さがひとつの売りだったのがメディアアートだが、どんなアートでもコンピュータを使うようになってきているので、メディアアートというくくり方をするのが難しくなるだろう、と。

つまり、アートの分野において技術的な優位性を持っていたのがメディアアートだが、社会における技術レベルが上がるのに伴ってアートの分野においても技術レベルが上ってきているので、メディアアートがそれ以外のアートに対して持っていた技術的な優位性が弱まっているわけです。

そうすると、メディアアートという言葉で他のアートと区分するのが難しくなる、と。また、明言はされていませんが、それによって、これまでメディアアートとして、つまり技術的なレベルの高さを売りにして制作をしてきたアーティストも、それが通用しなくなる、ということだと思います。これも明言はされていませんが、そうなったときに作品の評価を分けるのは結局中身というか、技術レベルとは関係ない作品そのものの面白さや美しさになってくるのだと思います。

 

 

以上、メディアアーティストと呼ばれる3人の発言が繋がったのでメモしておきました。技術だけで優位性が保てるのはしばらくの間だけで、中身が勝負になるタイミングがいずれ来る、と。これはアートもそうだしビジネスも全くその通りだなと思います。

好きではない言葉3「グロースハック」

2013年の上記著作が出たころからよく目にするようになった「グロースハック」という言葉が好きではありません。そもそも最近見ることが減ったということは下火になってるのですかね。

言葉としてすごく曖昧というか、結局「事業・サービスを急成長させる/利用者を急増させる人」のことを言っているので、それってどの仕事にも当てはまるじゃんというか。

僕は生意気にも背伸びをして下記原著を読んでみたのですが、そもそもこういうタイトルなのです。

www.amazon.co.jp

「Growth Hacker Marketing」とあるのでまずマーケティングの一つ、あるいはそれに近い仕事であることがわかります。さらに副題を訳すと「PRマーケティング、そして広告の未来についての読本」とあります。マーケティングやPRの新しい手法、みたいなことだと言えます。実際に内容もそうでした。

(誤解のないように書いておくと内容は面白かったです。ネットやSNSをふんだんに駆使して、無駄なコストをかけない効率的なマーケティング手法についてとても具体的に書かれていてよく理解できます。ただし高い技術を要する話ではないので2017年現在ではどれも当たり前のような話になっているかもしれません。当時は勉強になりました)

マーケティングの手法の話なのにそれを「グロースハッカー募集!」みたいに明確な職種として取り扱うのには違和感がありますね。ウェブマーケティングとかソーシャルメディアマーケティングって言った方がわかりやすい。流行り言葉に乗っかっている感が出るのもイケてない。

一番違和感があるのは冒頭に書いた点です。結局は事業なりサービスなりを急成長させること、あるいは成長を加速させることを指す言葉なので、マーケティングに近いのはもちろんですが、突き詰めればそれって別に営業でも開発でも人事でも経営でも、どの仕事をやっててもできるはずのことなんですよね。みんな元々グロースハッカーじゃん。と思うのです。

それがなぜ独立した一つの職種として扱われるのか…。僕の感覚地ですが、言葉としてなんとなくカッコよくて流行ってるから使ってるだけで、その意味について深く考えていない人が多そうです。

「グロースハッカー募集!」という求人はさらに違和感があります。まずその具体的な意味合いについて検討されていない感がある。それ、マーケターって言っちゃいけないんだっけ?と思う。そして、自分たちがまだ実際に見たこともない「事業を急成長させてくれるなんかすごい人」がどこかにいるという幻想を持っているような印象を受けます。けど、ホントにそんなスーパーマンみたいな人いるの?と思う。さらには、そういう人を募集しているということは、「自分たちには事業を成長させる力がない」ことを認めてしまっている可能性もある。他力本願すぎないか、と思う。

 

偉そうに書いてしまいましたが、グロースハック/グロースハッカーという言葉についてもっと明確な意味や必要性がある、という意見があればぜひ知りたいです。というか、これだけ言葉として広まっているのだから僕もむしろそうなんじゃないかと信じている部分もあるし、気にしてはいるのですが、なかなかそういう情報に行き着かず…。

好きではない言葉2「アラサー」

僕は現在28歳ですが「アラサー」という言葉が好きではありません。


なんなんですか。30歳になったら人生終わるんですか。残りの50年は無の境地なんですか。

他人や社会に迷惑かけなければ何歳になってもやりたいことやっていいと思うし、何歳になってもやりたいことやってる人の方が人として魅力的じゃないですか。昔ある古着屋で60代くらいの男性が普通に服を買いに来ているのを見て、自分もこんな風に生きていきたいと思ったことがあります。年齢だけを理由に自分の活動範囲を狭めても誰も得しなくて損するだけでは。

むしろ人生楽しんで充実した日々を送っていれば年を重ねるたびに魅力的な人間になっていくと思うのですがどうですか。

ただ体力の衰えはどうしても避けられないですね。あと女性の出産。女性が何歳になっても安心して子どもが産めるような医療技術ができたら、みんな若いうちの結婚を意識せずに好きなだけ仕事できていい人生になるんじゃないかなーと思っています。

 

追記

上記の通り偉そうにfacebookに書いたところ出産・育児の経験者である女性の某先輩から「育児は体力すごく使うから、男性も女性もむしろ若いうちにしておいた方が良い」という貴重なコメントをいただきました。たしかに。そこまで思い至りませんでしたがその通りですね。

そもそも出産は育児のスタートであって、子どもがお母さんの体内にいる時間が終わるというだけなんですよね。時間的に考えても妊娠期間より育児期間の方が通常は圧倒的に長い。体力もより多く使う。加齢に伴う体力の衰えが現在の医療技術では避けられない以上、それに引っ張られる形で出産も育児も早いに越したことはないですね。

逆に言えば、年齢を重ねても体力の衰えが防げる医療技術が生まれれば解決される。シンギュラリティの本とか読んでるとそういうことも起こりそうだなと期待してしまいますがどうなるんでしょうか。何歳になっても出産・育児が元気になせるようになったら幸せだと思うのでわずかながら期待していきたいと思います。

好きではない言葉「世界は狭い」

新しい人と知り合ったらその人が別の友人と実は知り合いだった、みたいな時の「世界は狭いねぇ〜」という言い方があまり好きではありません。
カッコつけるわけではなくて論理的に考えて思うのですが、それは「自分の世界が拡がったから」じゃないんですかね。世界が狭いんじゃなくてあなたの世界が広くなったんですよ。つまりいいことなんですよ。世界は広いままですよ。
まぁ世の中のほとんどの人はそんなこといちいち考えず、話のつなぎでこの言葉を発しているだけみたいなのですが、そういうところに引っかかってクソ真面目に考えてしまうタイプの人間も同時に一部存在するのです。それに、「世界が狭い」と考えるより「自分の世界が拡がった」と考える方が少しポジティブに生きていけると思いませんか。

ないものねだりと劣等感

もっと自信が持てるような専門性が自分には必要だなぁと痛感する日々を送っております。誰かと一緒に仕事や企画をするとなったとき、営業や管理・運営系のことは一通りできるものの、モノを作るスキルことはできず、専門知識を十分に持っている分野があるわけでもなく、そういうジェネラルスキル系の仕事しか自分にはできないなと感じる機会が最近増えたのです。

それはある意味ではしかたないことなのです。というのも、全く経験のない分野に飛び込んで仕事をしているからです。で、まだ1年足らず。業界知識は少しずつついてきたものの、ずっとその中で仕事をしている人に叶うはずもなく、毎日得る情報は知らなかったことばかりです。

ところが先日ある企画のメンバーと話していて、自分が持ってるジェネラル系のスキルも他人からすると十分に能力として見られていると気付かされることがありました。一緒にやっているメンバーはそれぞれ専門分野があるので、僕としては羨ましいなと思っていたのですが、逆から見ると向こうもこちらに対して近いことを思っていたのだそうです。

具体的には、平たくいうと文章力でした。確かにfacebookには毎日何回も書き込んでいます。時々長めの文も書きます。もともと文章を書くのはどちらかと言えば好きな方です。自分としては、単に友人たちに知ってほしい情報や読んでほしい記事があるから紹介しているだけだったり、自分が考えていることはなるべく多くの人に知っておいてもらった方が何かとメリットが多いから、ほとんど自分のために書いていたり、そんな感じです。でもそれが文章力の評価につながっていたならこんなにラッキーなことはないなと思いました。

人間は、ものごとの捉え方で3つに分類できるという考え方があるそうです。それは視覚型、聴覚型、体験型の3つ。もちろん誰しも3つのすべての感覚を大なり小なり持っているのでしょうが、どれが強いか、という部分では違いがありそうですね。僕はどうも視覚型みたいです。物事を調べたり理解したり考えたりする時は文字をはじめとして視覚に頼っている部分が多い気がします。これは文章力の話とも通じますね。

以前からよく思っていたのですが、結局人間はないものねだりをしてしまうものみたいです。自分にどんな強みとか得意なことがあっても、自分にできないことができる人を見ると「すごい」と思うし、自分にはそんなことできないなーと思って劣等感を感じてしまう。一人の人間がすべてのことにおいて秀でるというのは現代においては無理なので、この思考の仕組みを保ったままだと、人間は死ぬまでないものねだりをして、劣等感を感じて生きていくのでしょうね。疲れますね。いやですね。

でも他人からみると自分も同じように、「この人の真似はできない」とか「すごい」とか思われてたりすることもあるわけです。それがわかってだいぶ気が楽になりました(笑)。ということは、ないものねだり+劣等感のループから抜け出すためには、誰かの能力を褒めるというころを積極的にやっていけばよいのではないでしょうか。「よくそんなことできるね」とか「すごいね」とか。そうすれば、言われた側は多少自信が持てるのかもしれません。…いやそんなに単純じゃないかな。うう〜む。

ついでにもうひとつ、似たような事例を紹介しておきます。「ダウンタウンなう」の本音でハシゴ酒のコーナーにダチョウ倶楽部が出た回があります。その中でダチョウ倶楽部が、「自分たちは冠番組もない。たけしさんや志村さんなど色々な先輩のところに少しずつ出させてもらった。でもダウンタウン冠番組をたくさん持っていて、自分たちの城を作った。羨ましい」みたいな話をしていました。するとこれに対してダウンタウン坂上忍が「いやいや、逆にそれができる芸人はとても限られる。むしろ羨ましい」みたいなことを言っていました。つまりダチョウ倶楽部ダウンタウンもある意味お互いにないものねだりをしている部分があったようでした。でもどちらも、そんなこと考える必要は全くないくらいに売れていて、日本を代表する芸人たちなのは事実だと思います。それほどの人たちでもそういう思いを持ってしまうものなのかと、ちょっと考えさせられたのでした。

ないものねだりも劣等感もなしに生きていった方が前向きに活動できるから、結果的に経験も能力もつくだろうから、これからは意識的にそういう方向に自分を持っていこうと思います。

そのやり方が正しかったのかどうか。ほとんどの場合、それは結果が決める

同じことをやり続けて成功すれば「ブレない」と言われるし、それで失敗すれば「頑固」と言われる。

方法を修正しながらやって成功すれば「柔軟」「環境に適応した」と言われるし、それで失敗すれば「軸がない」と言われる。

世の中そんなものだ。結果が正義、成功が正義。良い結果が全過程を正当化する。

 

ついでに言うと、ある人がやったことに対して後から他人がそういう評価をする場合は結果論なので、実行した本人はそんなことを気にしても意味がないんだろうなと思う。他人が後から評価したらどうしても結果論にならざるをえない。そこに悪気はないし原理的に仕方ない。気にしないのが一番。

いいものはいいんですよ。中身をちゃんと見つめるべし

いいものはいい。ひとつひとつのものに対してそう思える/考える感覚を大事にしたいと思うわけです。

何の分野でもそうだと思いますが、僕が身の回りで具体的に思うのは主に音楽、アート、商売。それから政策も同じだなと思うようになりました。

僕は音楽がむかーしから好きだったので、自分が好きなCDを友達にたくさん貸していました。わりと評判が良いことが多くて、嬉しいからもっと多くの人にもっと多くの曲やミュージシャンを紹介したいと思うようになっています。

大事にしているのは、誰が作った曲だろうと、誰が歌った歌だろうと、「いいものはいい」と純粋に受け止めること。例えばK-POPをバカにしている人(僕も以前そうでした)はK-POPの曲というだけで全然評価しようとしなかったり、ウタモノしか聴かない人はインスト(instrumentalの略、歌がなくて楽器の演奏だけの音楽)の曲というだけで興味をなくしたりすることがあります。でもK-POPをバカにしていた僕もビビッとくるくらいイイ曲があったりします。勝手に自分でフィルターをかけていいものを遠ざけたり、その良さを味わう機会を逃してしまうのはすごくもったいないと思います。もちろん自分の好きな分野とそうでない分野が大まかにできるのは仕方ないし、好きな分野のものの方が確率的に気にいることが多いです。だからジャズの好きな人はジャズの曲をたくさん聴くようになるように、意図的に触れるものが偏ってしまうのはわかります。でも、せっかくそれ以外のものに触れる機会が訪れたら、その時はフラットな気持ちでそれに向き合った方が、自分の幅が広がるし、もしかしたら新たに好きなものが見つかるかもしれないわけです。

アートもそうだと思っています。ある作品に触れる時、その作家が誰々だからとか、どこどこで展示しているからとか、いつごろの作品だからとか、どういう形態の作品だからとか、そういう作品そのものの魅力と関係のないところで評価するのはもったいないと思います。これも音楽の話と同じで、ある程度自分の好みがわかっている人が、自分の好きな類の作品ばかり鑑賞するようになるのは仕方ないと思います。モネが好きな人はモネの作品をたくさん見るようになるだろうし、シュルレアリズムの好きな人はシュルレアリズムへの関心が高くなるだろうし、それは当然です。ただ、自分の好み以外の作品に触れる機会がもしあったら、そこはフラットに作品に向き合って、偏見なしに、いいかそうでないかを感じる/考えた方が、自分にとってメリットがあると思うのです。好みの幅が拡がったり、感性が豊かになったりするかもしれません。もちろんそうならないケースも多いですけどね。

商売・ビジネスも同じだと思っています。特に新規事業や起業に対しては、事業内容そのものではなくそれをやる人(たとえば過去に失敗経験のある人)や会社(たとえば新規事業に関連する知見の少ない会社)、あるいは市場の状況から、「これはうまくいかない」と決めつけてしまう人がよくいます。そうでなくても、初期の段階から重箱の隅をつついてばかりの人もいます。でも本来はそういう見方をするのではなくて、その商売の本質的な価値について考え、その価値があるのならば十分可能性があると考えるべきです。それが誰かの問題を解決するのか。誰かを幸せにするのか。するとしたらどれくらいの人をどれくらいの程度幸せにするのか。デメリットはどのくらいあるのか。逆にそういう意味での価値がない商売であれば、どんなに優秀な人やすごい会社がやったところで、あまり見込みはないはずです。商売だって、誰がやるとかいつやるとかよりも、それ自体に価値があるかどうかが大事だと思います。つまり「いいものはいい」んです。

そんなわけで文化も商売も同じだなとここ数年思っていたわけですが、最近になって政策も同じだなと思い至りました。わかりやすいのが米国トランプ政権の政策です。トランプさんを猛烈に嫌っている人がかなりの数で存在しているわけですが、彼らはトランプさんが言うこともやることも、「憎きトランプがやることだから」という理由で頭ごなしに否定しがちです。さらにそういった類の報道が多いので、その考え方に影響されてしまっている人も多いです。というか僕も選挙当日まではそうでした。でも冷静に社会の実情を調べて、そして冷静にトランプさんの政策とその意図を理解すると、ちゃんとまともなことをやろうとしている政策が少なくありません。もし同じ政策を、世間に人気のあったと思われるオバマさんが実行していたら、もしかしたらそれだけで支持されていたのかな、と考えると、それはよくないなと思うのです。結局政策も、誰がやるのかよりもその内容が大事なはずなんです。誰々がやるから、という理由でその良し悪しを判断していたら、よからぬ政策が実行されて不利益を被るかもしれません。政策だっていいものはいいんです。逆にいうと悪いものは誰がやっても悪いんです。

音楽やアートのような文化的・感性的なものと、ビジネスや政策のような実利的・理性的なものは、全然別の世界のものかなと思っていましたが、「いいものはいい」という点ではまったく共通しているんじゃないかと思うようになりました。自分の感性と理性、五感と脳を使って、いいものかそうでないのかを感じたり考えたりして生きていこうと思います。