夢は大きく歩みは手堅く

トリハダ代表 野島優一のブログ

好きではない言葉「世界は狭い」

新しい人と知り合ったらその人が別の友人と実は知り合いだった、みたいな時の「世界は狭いねぇ〜」という言い方があまり好きではありません。
カッコつけるわけではなくて論理的に考えて思うのですが、それは「自分の世界が拡がったから」じゃないんですかね。世界が狭いんじゃなくてあなたの世界が広くなったんですよ。つまりいいことなんですよ。世界は広いままですよ。
まぁ世の中のほとんどの人はそんなこといちいち考えず、話のつなぎでこの言葉を発しているだけみたいなのですが、そういうところに引っかかってクソ真面目に考えてしまうタイプの人間も同時に一部存在するのです。それに、「世界が狭い」と考えるより「自分の世界が拡がった」と考える方が少しポジティブに生きていけると思いませんか。

ないものねだりと劣等感

もっと自信が持てるような専門性が自分には必要だなぁと痛感する日々を送っております。誰かと一緒に仕事や企画をするとなったとき、営業や管理・運営系のことは一通りできるものの、モノを作るスキルことはできず、専門知識を十分に持っている分野があるわけでもなく、そういうジェネラルスキル系の仕事しか自分にはできないなと感じる機会が最近増えたのです。

それはある意味ではしかたないことなのです。というのも、全く経験のない分野に飛び込んで仕事をしているからです。で、まだ1年足らず。業界知識は少しずつついてきたものの、ずっとその中で仕事をしている人に叶うはずもなく、毎日得る情報は知らなかったことばかりです。

ところが先日ある企画のメンバーと話していて、自分が持ってるジェネラル系のスキルも他人からすると十分に能力として見られていると気付かされることがありました。一緒にやっているメンバーはそれぞれ専門分野があるので、僕としては羨ましいなと思っていたのですが、逆から見ると向こうもこちらに対して近いことを思っていたのだそうです。

具体的には、平たくいうと文章力でした。確かにfacebookには毎日何回も書き込んでいます。時々長めの文も書きます。もともと文章を書くのはどちらかと言えば好きな方です。自分としては、単に友人たちに知ってほしい情報や読んでほしい記事があるから紹介しているだけだったり、自分が考えていることはなるべく多くの人に知っておいてもらった方が何かとメリットが多いから、ほとんど自分のために書いていたり、そんな感じです。でもそれが文章力の評価につながっていたならこんなにラッキーなことはないなと思いました。

人間は、ものごとの捉え方で3つに分類できるという考え方があるそうです。それは視覚型、聴覚型、体験型の3つ。もちろん誰しも3つのすべての感覚を大なり小なり持っているのでしょうが、どれが強いか、という部分では違いがありそうですね。僕はどうも視覚型みたいです。物事を調べたり理解したり考えたりする時は文字をはじめとして視覚に頼っている部分が多い気がします。これは文章力の話とも通じますね。

以前からよく思っていたのですが、結局人間はないものねだりをしてしまうものみたいです。自分にどんな強みとか得意なことがあっても、自分にできないことができる人を見ると「すごい」と思うし、自分にはそんなことできないなーと思って劣等感を感じてしまう。一人の人間がすべてのことにおいて秀でるというのは現代においては無理なので、この思考の仕組みを保ったままだと、人間は死ぬまでないものねだりをして、劣等感を感じて生きていくのでしょうね。疲れますね。いやですね。

でも他人からみると自分も同じように、「この人の真似はできない」とか「すごい」とか思われてたりすることもあるわけです。それがわかってだいぶ気が楽になりました(笑)。ということは、ないものねだり+劣等感のループから抜け出すためには、誰かの能力を褒めるというころを積極的にやっていけばよいのではないでしょうか。「よくそんなことできるね」とか「すごいね」とか。そうすれば、言われた側は多少自信が持てるのかもしれません。…いやそんなに単純じゃないかな。うう〜む。

ついでにもうひとつ、似たような事例を紹介しておきます。「ダウンタウンなう」の本音でハシゴ酒のコーナーにダチョウ倶楽部が出た回があります。その中でダチョウ倶楽部が、「自分たちは冠番組もない。たけしさんや志村さんなど色々な先輩のところに少しずつ出させてもらった。でもダウンタウン冠番組をたくさん持っていて、自分たちの城を作った。羨ましい」みたいな話をしていました。するとこれに対してダウンタウン坂上忍が「いやいや、逆にそれができる芸人はとても限られる。むしろ羨ましい」みたいなことを言っていました。つまりダチョウ倶楽部ダウンタウンもある意味お互いにないものねだりをしている部分があったようでした。でもどちらも、そんなこと考える必要は全くないくらいに売れていて、日本を代表する芸人たちなのは事実だと思います。それほどの人たちでもそういう思いを持ってしまうものなのかと、ちょっと考えさせられたのでした。

ないものねだりも劣等感もなしに生きていった方が前向きに活動できるから、結果的に経験も能力もつくだろうから、これからは意識的にそういう方向に自分を持っていこうと思います。

そのやり方が正しかったのかどうか。ほとんどの場合、それは結果が決める

同じことをやり続けて成功すれば「ブレない」と言われるし、それで失敗すれば「頑固」と言われる。

方法を修正しながらやって成功すれば「柔軟」「環境に適応した」と言われるし、それで失敗すれば「軸がない」と言われる。

世の中そんなものだ。結果が正義、成功が正義。良い結果が全過程を正当化する。

 

ついでに言うと、ある人がやったことに対して後から他人がそういう評価をする場合は結果論なので、実行した本人はそんなことを気にしても意味がないんだろうなと思う。他人が後から評価したらどうしても結果論にならざるをえない。そこに悪気はないし原理的に仕方ない。気にしないのが一番。

いいものはいいんですよ。中身をちゃんと見つめるべし

いいものはいい。ひとつひとつのものに対してそう思える/考える感覚を大事にしたいと思うわけです。

何の分野でもそうだと思いますが、僕が身の回りで具体的に思うのは主に音楽、アート、商売。それから政策も同じだなと思うようになりました。

僕は音楽がむかーしから好きだったので、自分が好きなCDを友達にたくさん貸していました。わりと評判が良いことが多くて、嬉しいからもっと多くの人にもっと多くの曲やミュージシャンを紹介したいと思うようになっています。

大事にしているのは、誰が作った曲だろうと、誰が歌った歌だろうと、「いいものはいい」と純粋に受け止めること。例えばK-POPをバカにしている人(僕も以前そうでした)はK-POPの曲というだけで全然評価しようとしなかったり、ウタモノしか聴かない人はインスト(instrumentalの略、歌がなくて楽器の演奏だけの音楽)の曲というだけで興味をなくしたりすることがあります。でもK-POPをバカにしていた僕もビビッとくるくらいイイ曲があったりします。勝手に自分でフィルターをかけていいものを遠ざけたり、その良さを味わう機会を逃してしまうのはすごくもったいないと思います。もちろん自分の好きな分野とそうでない分野が大まかにできるのは仕方ないし、好きな分野のものの方が確率的に気にいることが多いです。だからジャズの好きな人はジャズの曲をたくさん聴くようになるように、意図的に触れるものが偏ってしまうのはわかります。でも、せっかくそれ以外のものに触れる機会が訪れたら、その時はフラットな気持ちでそれに向き合った方が、自分の幅が広がるし、もしかしたら新たに好きなものが見つかるかもしれないわけです。

アートもそうだと思っています。ある作品に触れる時、その作家が誰々だからとか、どこどこで展示しているからとか、いつごろの作品だからとか、どういう形態の作品だからとか、そういう作品そのものの魅力と関係のないところで評価するのはもったいないと思います。これも音楽の話と同じで、ある程度自分の好みがわかっている人が、自分の好きな類の作品ばかり鑑賞するようになるのは仕方ないと思います。モネが好きな人はモネの作品をたくさん見るようになるだろうし、シュルレアリズムの好きな人はシュルレアリズムへの関心が高くなるだろうし、それは当然です。ただ、自分の好み以外の作品に触れる機会がもしあったら、そこはフラットに作品に向き合って、偏見なしに、いいかそうでないかを感じる/考えた方が、自分にとってメリットがあると思うのです。好みの幅が拡がったり、感性が豊かになったりするかもしれません。もちろんそうならないケースも多いですけどね。

商売・ビジネスも同じだと思っています。特に新規事業や起業に対しては、事業内容そのものではなくそれをやる人(たとえば過去に失敗経験のある人)や会社(たとえば新規事業に関連する知見の少ない会社)、あるいは市場の状況から、「これはうまくいかない」と決めつけてしまう人がよくいます。そうでなくても、初期の段階から重箱の隅をつついてばかりの人もいます。でも本来はそういう見方をするのではなくて、その商売の本質的な価値について考え、その価値があるのならば十分可能性があると考えるべきです。それが誰かの問題を解決するのか。誰かを幸せにするのか。するとしたらどれくらいの人をどれくらいの程度幸せにするのか。デメリットはどのくらいあるのか。逆にそういう意味での価値がない商売であれば、どんなに優秀な人やすごい会社がやったところで、あまり見込みはないはずです。商売だって、誰がやるとかいつやるとかよりも、それ自体に価値があるかどうかが大事だと思います。つまり「いいものはいい」んです。

そんなわけで文化も商売も同じだなとここ数年思っていたわけですが、最近になって政策も同じだなと思い至りました。わかりやすいのが米国トランプ政権の政策です。トランプさんを猛烈に嫌っている人がかなりの数で存在しているわけですが、彼らはトランプさんが言うこともやることも、「憎きトランプがやることだから」という理由で頭ごなしに否定しがちです。さらにそういった類の報道が多いので、その考え方に影響されてしまっている人も多いです。というか僕も選挙当日まではそうでした。でも冷静に社会の実情を調べて、そして冷静にトランプさんの政策とその意図を理解すると、ちゃんとまともなことをやろうとしている政策が少なくありません。もし同じ政策を、世間に人気のあったと思われるオバマさんが実行していたら、もしかしたらそれだけで支持されていたのかな、と考えると、それはよくないなと思うのです。結局政策も、誰がやるのかよりもその内容が大事なはずなんです。誰々がやるから、という理由でその良し悪しを判断していたら、よからぬ政策が実行されて不利益を被るかもしれません。政策だっていいものはいいんです。逆にいうと悪いものは誰がやっても悪いんです。

音楽やアートのような文化的・感性的なものと、ビジネスや政策のような実利的・理性的なものは、全然別の世界のものかなと思っていましたが、「いいものはいい」という点ではまったく共通しているんじゃないかと思うようになりました。自分の感性と理性、五感と脳を使って、いいものかそうでないのかを感じたり考えたりして生きていこうと思います。

 

 

古いとか新しいとか言ってる場合じゃないのかもしれない

先日ファッション業界に関わりのある人から聞いたのですが、今の20歳前後のファッションモデルの人は「自分が知らないもの = 新しい」という感覚があるそうです。

 

具体的に言うと、例えば最近もよく見られる80年代風のレトロなファッションは、彼らにとっては知らないものだから「新しい」ということになるのだそうです。別にそれがもともと80年代に流行っていたものだから古いよね、とか、その古めかしさが面白いよね、とかいう感覚ではなく、単に「自分が知らない」から新しいものとして受け止めるのだそうです。

 

なるほどなーと。まぁわからないでもない。誰だって、自分が生きていなかった時代のファッション、たとえば戦前とか、もっといえば江戸時代の日本の武士の服装とかを初めて目にしたときは、「自分が知らないもの」なわけです。それを古いものとする認識は大抵は後付けのはずです。江戸時代の服装の挿絵や写真を見つつ脇にある「これは何年ごろの武士の日常的な服装で…」みたいな説明を読んで、あるいはそう話す先生の説明を聞いて、脳がそう理解するのでしょう。

 

でもその説明なしに挿絵や写真だけ見て、そのまま受けとめたら、それは新しいものとして認識するのかもしれないなと。

 

とはいえ、これだけ情報が溢れて、ネット上にも古い写真がバンバン共有されるような時代では、世の中のほとんどのものについて(特に文化的なもの、人間の身の回りのもの)、「これは古いもの」と瞬時に断定されてしまうので、見たものを自分の感覚だけで受け止めるのは難しくなっているとは思います。

 

似たような事例がもうひとつ見つかったのでリンクを貼っておきます。タイトルが的確に内容を説明していますが、ブログを書いた「私(40歳)」に似てゲーマーになった「息子(11歳)」が、レトロな名作ゲームをプレイしてどんな感想を抱くのかがとても細やかに書かれています。ていうかこの人すごく文章が丁寧というか、こういう力のあるブログは読んでいて面白いですね。

jp.automaton.am

 

注目してほしいのはこの一言。

息子「これ、8bit風のグラフィックにしてるんだね」

…うおーw。

このファイナルファイトというゲームは1990年前後に出たので当然8bitのグラフィックなわけです。わりとリアルなドット絵みたいに言うこともできるかもしれません。でもそれが11歳の少年にはそう思えるのです。

続いて父親の心の葛藤が綴られます。わかりすぎて痛いくらい。

いやいや息子よ、それは初代ファミコン時代のタイトルだからそりゃそうだよ、「してる」んじゃなくて「当時の仕様、限界」だよ、と即座に返したかった。が、同時にハっとするものがあった。一周回って「8bit風デザイン」を取り入れているタイトルが多い現在において、ゲームウォッチ時代からのゲームの進化を知っている我々世代とは違い、すでに物心付いたときからフォトライクなゲームを知っている世代にとっては、「8bit」は「レトロなゲーム感のリブート」ではなく、「よく見るの表現手法の一つ」でしかない、ということになる

先ほどのファッションモデルの人が、過去に流行ったファッションを「新しい」と捉えるのに対して、ここでは過去のグラフィックデザインが「よく見る表現手法の一つ」として捉えられています。それは完全に一致する捉え方わけではないし、前者は肯定的で後者は否定的という違いもあります。が、単に「過去のもの = 古い」みたいな感覚がない点は共通していて、2つの話が繋がって思えたのでした。

結局いつの時代のものであれ、いいものはいいしそうでないものはそうでない、ということかなと。そうなると、「古い = よくない」「新しい = いい」という考え方は辞めた方がいいというか、なんか損するんだろうなと思います。古くたっていいものがあれば使えばいい、楽しめばいいんですよね。

たぶんある程度年齢を重ねて、世の中にあるものの何が古くて何が新しいのかがわかってくると、どうも「古い = よくない」「新しい = いい」という図式が無意識にできていってしまう気がするので、なるべくそれを捨てて自由になって、自分の感覚を大事に生きていった方が、少なくとも人生楽しそうですね。

 

 

 

 

小杉俊哉『起業家のように企業で働く』

このタイトルのような感覚はとても大事だと今でも思います。僕も前職では事業立上の仕事ばかりする機会に恵まれ(ラッキー)、しかも会社全体の業績が安定して伸びていたので変なプレッシャーもなく(ラッキー)、さらに現場の若手にかなり自由に仕事させてくれる上司にも恵まれたので(超ラッキー)、まるで自分の事業であるかのように仕事に取り組んでいました。もちろん、私的に利用したとかいう悪い意味ではなく、事業と自分が重なるような感覚の良い意味で、です。

新しいことを始める時は、勤めている会社の中でやる、または独立してやる、という2つの方法が大きくあるわけで、それぞれのメリット・デメリットは独立してからより一層考えるようになりました。会社の中でやるメリットはやはり、大きなリソースが使えること(人材、設備、社名(の知名度やブランド力)、既存顧客、そして資金!)、そして失敗しても既存事業があればすぐには食いっぱぐれないこと、あたりでしょうか。この2つは新たに起業してから手に入れるのは簡単ではないと思います。ただ資金に関しては、最近は資金調達の方法も増え、難易度も下がっているかもしれませんが。

ちなみにこの本は各章ごとに有名経営者の言葉が引用されており、著者には申し訳ないですがその引用が一番勉強になりました。立読でそこだけ読んじゃうとかもアリかもしれません。

 

 

 

近い将来、労働はお金を払ってやるようになる?

大昔は常に徒歩移動だし毎日肉体労働だから、あえて運動することはしなかったはず。変わって今は日常生活で運動しなくて、でも心身の健康維持に有効だからあえて運動する。しかもジムにお金払ってまでやる。

同じ流れを労働そのものに当てはめると、今まではお金をもらうために労働してるけど将来はお金払って労働するんですかね。人類は近いうちに大半の労働から解放されそうですが、だからってなんにもせずに毎日遊びほうけてたらすぐ飽きるだろうし、逆に鬱になると思う、というかそういう事例を聞いたことある。てことは心身の健康維持のためにあえて、お金払ってでも労働するのでは。

すげー。

 

 

 

あ、お金の存在意義も同時に大きく変わりそうなので、「お金払ってでもやる」とはならなさそうですね。