夢は大きく歩みは手堅く

トリハダ代表 野島優一のブログ

いいものはいいんですよ。中身をちゃんと見つめるべし

いいものはいい。ひとつひとつのものに対してそう思える/考える感覚を大事にしたいと思うわけです。

何の分野でもそうだと思いますが、僕が身の回りで具体的に思うのは主に音楽、アート、商売。それから政策も同じだなと思うようになりました。

僕は音楽がむかーしから好きだったので、自分が好きなCDを友達にたくさん貸していました。わりと評判が良いことが多くて、嬉しいからもっと多くの人にもっと多くの曲やミュージシャンを紹介したいと思うようになっています。

大事にしているのは、誰が作った曲だろうと、誰が歌った歌だろうと、「いいものはいい」と純粋に受け止めること。例えばK-POPをバカにしている人(僕も以前そうでした)はK-POPの曲というだけで全然評価しようとしなかったり、ウタモノしか聴かない人はインスト(instrumentalの略、歌がなくて楽器の演奏だけの音楽)の曲というだけで興味をなくしたりすることがあります。でもK-POPをバカにしていた僕もビビッとくるくらいイイ曲があったりします。勝手に自分でフィルターをかけていいものを遠ざけたり、その良さを味わう機会を逃してしまうのはすごくもったいないと思います。もちろん自分の好きな分野とそうでない分野が大まかにできるのは仕方ないし、好きな分野のものの方が確率的に気にいることが多いです。だからジャズの好きな人はジャズの曲をたくさん聴くようになるように、意図的に触れるものが偏ってしまうのはわかります。でも、せっかくそれ以外のものに触れる機会が訪れたら、その時はフラットな気持ちでそれに向き合った方が、自分の幅が広がるし、もしかしたら新たに好きなものが見つかるかもしれないわけです。

アートもそうだと思っています。ある作品に触れる時、その作家が誰々だからとか、どこどこで展示しているからとか、いつごろの作品だからとか、どういう形態の作品だからとか、そういう作品そのものの魅力と関係のないところで評価するのはもったいないと思います。これも音楽の話と同じで、ある程度自分の好みがわかっている人が、自分の好きな類の作品ばかり鑑賞するようになるのは仕方ないと思います。モネが好きな人はモネの作品をたくさん見るようになるだろうし、シュルレアリズムの好きな人はシュルレアリズムへの関心が高くなるだろうし、それは当然です。ただ、自分の好み以外の作品に触れる機会がもしあったら、そこはフラットに作品に向き合って、偏見なしに、いいかそうでないかを感じる/考えた方が、自分にとってメリットがあると思うのです。好みの幅が拡がったり、感性が豊かになったりするかもしれません。もちろんそうならないケースも多いですけどね。

商売・ビジネスも同じだと思っています。特に新規事業や起業に対しては、事業内容そのものではなくそれをやる人(たとえば過去に失敗経験のある人)や会社(たとえば新規事業に関連する知見の少ない会社)、あるいは市場の状況から、「これはうまくいかない」と決めつけてしまう人がよくいます。そうでなくても、初期の段階から重箱の隅をつついてばかりの人もいます。でも本来はそういう見方をするのではなくて、その商売の本質的な価値について考え、その価値があるのならば十分可能性があると考えるべきです。それが誰かの問題を解決するのか。誰かを幸せにするのか。するとしたらどれくらいの人をどれくらいの程度幸せにするのか。デメリットはどのくらいあるのか。逆にそういう意味での価値がない商売であれば、どんなに優秀な人やすごい会社がやったところで、あまり見込みはないはずです。商売だって、誰がやるとかいつやるとかよりも、それ自体に価値があるかどうかが大事だと思います。つまり「いいものはいい」んです。

そんなわけで文化も商売も同じだなとここ数年思っていたわけですが、最近になって政策も同じだなと思い至りました。わかりやすいのが米国トランプ政権の政策です。トランプさんを猛烈に嫌っている人がかなりの数で存在しているわけですが、彼らはトランプさんが言うこともやることも、「憎きトランプがやることだから」という理由で頭ごなしに否定しがちです。さらにそういった類の報道が多いので、その考え方に影響されてしまっている人も多いです。というか僕も選挙当日まではそうでした。でも冷静に社会の実情を調べて、そして冷静にトランプさんの政策とその意図を理解すると、ちゃんとまともなことをやろうとしている政策が少なくありません。もし同じ政策を、世間に人気のあったと思われるオバマさんが実行していたら、もしかしたらそれだけで支持されていたのかな、と考えると、それはよくないなと思うのです。結局政策も、誰がやるのかよりもその内容が大事なはずなんです。誰々がやるから、という理由でその良し悪しを判断していたら、よからぬ政策が実行されて不利益を被るかもしれません。政策だっていいものはいいんです。逆にいうと悪いものは誰がやっても悪いんです。

音楽やアートのような文化的・感性的なものと、ビジネスや政策のような実利的・理性的なものは、全然別の世界のものかなと思っていましたが、「いいものはいい」という点ではまったく共通しているんじゃないかと思うようになりました。自分の感性と理性、五感と脳を使って、いいものかそうでないのかを感じたり考えたりして生きていこうと思います。

 

 

古いとか新しいとか言ってる場合じゃないのかもしれない

先日ファッション業界に関わりのある人から聞いたのですが、今の20歳前後のファッションモデルの人は「自分が知らないもの = 新しい」という感覚があるそうです。

 

具体的に言うと、例えば最近もよく見られる80年代風のレトロなファッションは、彼らにとっては知らないものだから「新しい」ということになるのだそうです。別にそれがもともと80年代に流行っていたものだから古いよね、とか、その古めかしさが面白いよね、とかいう感覚ではなく、単に「自分が知らない」から新しいものとして受け止めるのだそうです。

 

なるほどなーと。まぁわからないでもない。誰だって、自分が生きていなかった時代のファッション、たとえば戦前とか、もっといえば江戸時代の日本の武士の服装とかを初めて目にしたときは、「自分が知らないもの」なわけです。それを古いものとする認識は大抵は後付けのはずです。江戸時代の服装の挿絵や写真を見つつ脇にある「これは何年ごろの武士の日常的な服装で…」みたいな説明を読んで、あるいはそう話す先生の説明を聞いて、脳がそう理解するのでしょう。

 

でもその説明なしに挿絵や写真だけ見て、そのまま受けとめたら、それは新しいものとして認識するのかもしれないなと。

 

とはいえ、これだけ情報が溢れて、ネット上にも古い写真がバンバン共有されるような時代では、世の中のほとんどのものについて(特に文化的なもの、人間の身の回りのもの)、「これは古いもの」と瞬時に断定されてしまうので、見たものを自分の感覚だけで受け止めるのは難しくなっているとは思います。

 

似たような事例がもうひとつ見つかったのでリンクを貼っておきます。タイトルが的確に内容を説明していますが、ブログを書いた「私(40歳)」に似てゲーマーになった「息子(11歳)」が、レトロな名作ゲームをプレイしてどんな感想を抱くのかがとても細やかに書かれています。ていうかこの人すごく文章が丁寧というか、こういう力のあるブログは読んでいて面白いですね。

jp.automaton.am

 

注目してほしいのはこの一言。

息子「これ、8bit風のグラフィックにしてるんだね」

…うおーw。

このファイナルファイトというゲームは1990年前後に出たので当然8bitのグラフィックなわけです。わりとリアルなドット絵みたいに言うこともできるかもしれません。でもそれが11歳の少年にはそう思えるのです。

続いて父親の心の葛藤が綴られます。わかりすぎて痛いくらい。

いやいや息子よ、それは初代ファミコン時代のタイトルだからそりゃそうだよ、「してる」んじゃなくて「当時の仕様、限界」だよ、と即座に返したかった。が、同時にハっとするものがあった。一周回って「8bit風デザイン」を取り入れているタイトルが多い現在において、ゲームウォッチ時代からのゲームの進化を知っている我々世代とは違い、すでに物心付いたときからフォトライクなゲームを知っている世代にとっては、「8bit」は「レトロなゲーム感のリブート」ではなく、「よく見るの表現手法の一つ」でしかない、ということになる

先ほどのファッションモデルの人が、過去に流行ったファッションを「新しい」と捉えるのに対して、ここでは過去のグラフィックデザインが「よく見る表現手法の一つ」として捉えられています。それは完全に一致する捉え方わけではないし、前者は肯定的で後者は否定的という違いもあります。が、単に「過去のもの = 古い」みたいな感覚がない点は共通していて、2つの話が繋がって思えたのでした。

結局いつの時代のものであれ、いいものはいいしそうでないものはそうでない、ということかなと。そうなると、「古い = よくない」「新しい = いい」という考え方は辞めた方がいいというか、なんか損するんだろうなと思います。古くたっていいものがあれば使えばいい、楽しめばいいんですよね。

たぶんある程度年齢を重ねて、世の中にあるものの何が古くて何が新しいのかがわかってくると、どうも「古い = よくない」「新しい = いい」という図式が無意識にできていってしまう気がするので、なるべくそれを捨てて自由になって、自分の感覚を大事に生きていった方が、少なくとも人生楽しそうですね。

 

 

 

 

小杉俊哉『起業家のように企業で働く』

このタイトルのような感覚はとても大事だと今でも思います。僕も前職では事業立上の仕事ばかりする機会に恵まれ(ラッキー)、しかも会社全体の業績が安定して伸びていたので変なプレッシャーもなく(ラッキー)、さらに現場の若手にかなり自由に仕事させてくれる上司にも恵まれたので(超ラッキー)、まるで自分の事業であるかのように仕事に取り組んでいました。もちろん、私的に利用したとかいう悪い意味ではなく、事業と自分が重なるような感覚の良い意味で、です。

新しいことを始める時は、勤めている会社の中でやる、または独立してやる、という2つの方法が大きくあるわけで、それぞれのメリット・デメリットは独立してからより一層考えるようになりました。会社の中でやるメリットはやはり、大きなリソースが使えること(人材、設備、社名(の知名度やブランド力)、既存顧客、そして資金!)、そして失敗しても既存事業があればすぐには食いっぱぐれないこと、あたりでしょうか。この2つは新たに起業してから手に入れるのは簡単ではないと思います。ただ資金に関しては、最近は資金調達の方法も増え、難易度も下がっているかもしれませんが。

ちなみにこの本は各章ごとに有名経営者の言葉が引用されており、著者には申し訳ないですがその引用が一番勉強になりました。立読でそこだけ読んじゃうとかもアリかもしれません。

 

 

 

近い将来、労働はお金を払ってやるようになる?

大昔は常に徒歩移動だし毎日肉体労働だから、あえて運動することはしなかったはず。変わって今は日常生活で運動しなくて、でも心身の健康維持に有効だからあえて運動する。しかもジムにお金払ってまでやる。

同じ流れを労働そのものに当てはめると、今まではお金をもらうために労働してるけど将来はお金払って労働するんですかね。人類は近いうちに大半の労働から解放されそうですが、だからってなんにもせずに毎日遊びほうけてたらすぐ飽きるだろうし、逆に鬱になると思う、というかそういう事例を聞いたことある。てことは心身の健康維持のためにあえて、お金払ってでも労働するのでは。

すげー。

 

 

 

あ、お金の存在意義も同時に大きく変わりそうなので、「お金払ってでもやる」とはならなさそうですね。

2017年あけましておめでとうございます

(2017年1月4日の投稿)

あけましておめでとうございます。せっかく昨日から仕事モードでやってたのに今日になって風邪引いてしまい不完全燃焼なスタートを切っています。ああ悔しい。

昨年はとりあえず独立したわけですが、一番よく聞かれた質問は「順調?」でした。回答は「順調ではないけどどうにか前進はしてます」です。最初から順調に行くような仕事ならとっくに他の人が大成功してると思うので、そんなに簡単に行かないことは百も承知です。

何の分野でも地道な積み重ねが一番効果ある気がするし、行動し続けていれば見てくれてる人はいるし応援してくれる人も見つかります(これは昨年の大きな発見でした!応援してくれる皆さま本当に本当にありがとうございます)。後で思わぬ形で仕事になることもあると思います。できることを着々とやっていきます。

アートの説明ってどうしてこんなにややこしいのか

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美術手帖が出版した『現代アート事典』という本を、勉強のために読んでる。構成やデザインがわかりやすいのでいいなと思ったのですが挫折しそうです。もうね、表現がややこしすぎて何言ってんのかさっぱりなんですよ。以下例。

 

モダニズム絵画の、調和による美学を脱構築した」…はぁ?

「絵画性と体験的要素と文脈喚起力を融合させた設置」えっとすいません何をおっしゃってるのか

「自立した美や造形性を持ちながらも、見なれた形が変容して不定形な模様や光学現象を表す体験を通して、凡庸な事物や風景に幾何学形やフラクタルな形を発見したときの知覚の運動や連想によって喚起される思考の働きを誘い出している」わぁぁぁもはや何語なのかわかりません

こんなことやってるからアートのファンが増えないんですよ。いや失礼、これはこれで文献としては価値があるのかもしれないし、アートを専門に研究している人には適切な表現なのかもしれません。だからこそこういう本が出てるのだろうし、美術館の作品説明もこういう文体ですよね。けどこれ読んでも新たなアートファンは生まれにくいと思うんですよ。

こういうのじゃなくて、もっと身近で、これまでアートに興味なかった人が興味持てる場というか機会を増やす方を僕は頑張ろうと思うわけです。最近そういう路線のイベントが増えているのはいいことだと思います。チームラボの作品もわかりやすくてすごくいいと思います。

こんな小難しい文章読まなくてもアートが面白い、楽しい、って感じる方法はあるので敬遠しないで欲しいです。

 

例の問題の最中にDeNA創業者南場さんの『不格好経営』を読んだ感想

読もう読もうと思いつつ後回しになっていた(たくさんの本のうちの一冊である)本書、このタイミングで読みました。面白すぎて一気に読んでしまった。そして何度吹き、何度ウルッときたことか。南場さん文章上手すぎませんか。箇条書きですが以下感想。一部引用しつつ。

・どんなに輝かしい業績を持つ会社だって実態はカオス、というのはよくある話だと思いますが、DeNAもそうなんですね。ありえないような失敗談がたくさん、それも赤裸々に書いてありました。納品直前のシステムがコード0行とわかったとか、他社と提携してリリースしたシステムに障害があってすぐ引っ込めたとか、海外の買収先の会社に全然予定通りにモノを作ってもらえなかったとか。よくこんなの乗り越えてここまで来てるよなすごいなという印象です。

・所詮中身のない携帯ゲーム会社だろ、美しくない、という意見をよく聞くし、僕もそう思っている部分がありました。特にソーシャルゲームコンプガチャ問題で世間を騒がせたときのイメージがあまりにも強い。ところが、これ読んである程度は印象が変わりました。確かにゲーム事業が成長の中核をなしてきたのだと思いますが、そもそも最初はネットオークション、特にモバイルオークションが大当たりして上場しています。その後世間に一気に知られるようになったのがモバゲーだったんですね。上場後の話です。あとカスタマーサポートには相当力を入れているようです。モバゲーが出会い系扱いされて問題化していたようですが、その後の取組の成果はめざましい。ガチャの件の対応は、既に社長を後退していたということもあってか、あまり紙面が割かれておらず残念でした。

・創業メンバーだった川田氏についてのこの文章がとても響きました。

誰よりも働く、人を責めない、人格を認める、スター社員に嬉々とする、トラブルにも嬉々とする。そして、俺は聞いていない、バイパスするな、などという言葉も概念もいっさいない。とにかく一歩でも、ちょっとでも前に進むことしか考えない。 

なんと清々しい。自分がこれまで一緒に働いた人の中には、これにとても近い人もいればかけ離れた人もいました。どちらと働いている時に仕事がうまくいったかは言うまでもありません。自分もこうあろうと思います。

・自社のトラブルで迷惑をかけた某大手に謝罪に行ったら、もちろん怒られたけど終始冷静で、最後は前向きな話に持っていってくれた、という話がありました。

何かをやらかした人たちに対する対応は、その会社の品性が如実に表れると感じる。

これもその通りだなーーーと。これは会社同士の関係にも人間関係にも当てはまると思います。1つ前の話とも重なりますが、問題を起こした人に対して人格攻撃をする人とは、正直に言って付き合いたいと思いません。そういう人は周囲もどんどん離れていって、誰からも好かれないのでは。結局損をするのは本人だと思います。人格攻撃をしても問題は解決しないし誰も幸せにならない気がするんです。そんなことしてる暇あったら冷静に前向きに、起こったことに対して協力して対処することを考える方が100倍生産的だと思います。気をつけようと思います。

・前々から思っているのですが、経営者も人間なんですよね。それは南場さんも同じじゃないかなと読んでいて思いました。部分部分では世の中の人の平均よりも能力が高いのは確かだと思うのですが(そもそもビジネス経験がハンパないので当然ですね)、やっぱり最初はたくさん失敗しているし、その度に挫けそうになりながら、色々な人に助けられて、泥臭く泥臭く頑張ってなんとか踏ん張って再起していく。結局順風満帆に進む人生も会社もないのだと思います。

許されるなら孫正義さんの鞄持ちをしてみたい。(中略)私と同じ24時間しかない1日をどうやって過ごしているのか、時間配分だけでなく、パソコンのデスクトップに何を置いているのか、独り言は言うのか、ゲームは何をやっているのかなど、いろいろ関心がある。

これって、一般人が有名人に対して思うことと全く同じだと思うのです。それこそ南場さんに影響を受けた社会人は南場さんに対して全く同じことを考えていると思います。だからこの「自分よりすごいと思っている人の行動や考え方を詳しく知りたいという気持ち」は有名経営者であってもそうでない庶民であっても同じだと思います。これは庶民としてはとても勇気の出る話だし、前向きになれますよね。その意味でこの思いをぶちまけてくれた南場さんに感謝したいです。

DeNAで模範とされている仕事への姿勢に「自分の仕事に対するオーナーシップと思考の独立性を自然に持ち合わせている」というのがあるようで、これもとても大事だなと感じます。僕の場合は、ある時から仕事でこの感覚を強く持てるようになり、同時に、それまでの人生がウソのように仕事が楽しくなり、成果も出て、評価もしてもらえるようになりました。責任感も自然に適度に生まれて、なんというかすごく健全な状態で仕事ができるようになったのを覚えています。その時は環境的な要因が大きく作用してこの感覚に至ったのですが、思考も行動も自分に独立性が認められているというのはとてもワクワクするし頑張れるものです。会社としてそういう環境を作るのも非常に大事なのでしょう。

・最近話題になっているメディアサイトの問題と絡む部分として書き留めておきたいのは、現社長である守安さんの「任せる勇気」について言及されていたこと。これを南場さんは高く評価しているようでした。僕個人も、組織の行動のスピード感や現場のオーナーシップを高く保つためには、現場への権限委譲はかなりの度合いで行うべきだと思うので、この方針には賛成だなと思いました。ただ、問題になった例のメディアサイトの運営ではこれが裏目に出てしまったということではないかと思います。各種報道でも「社長の守安氏はマニュアルの内容を把握していなかった」という点が取り上げられたりしていますが、これは大規模の会社であれば当然の話だと思うのです。

それは決して無責任なのではなくて、その内容まで含めて事業の責任者や現場の人間に「任せ」て、その上で問題が発生した場合の最終責任は社長である自分が負う、という形の責任のとり方として十分にアリではないでしょうか。むしろ守安さんが各事業の現場のマニュアルをいちいちチェックしていたら、もっと重要な経営判断の仕事がおろそかになりえます。それだけでなく、事業責任者や現場の人間は「自分たちは社長に一切信頼されていない」という印象を持ってしまう可能性もあり、それは彼らのパフォーマンスを著しく下げます。会社の中核となるようなマニュアル、例えば小売業で全店舗に適用するもの等であれば社長が見るものかもしれませんが、今回はそうではない。見ない場合のリスクも全部わかった上で現場に任せていたはずだし、その方針自体は正しいと思います。そして事実、社長はじめ経営トップの3名が記者会見を開いて謝罪し、対応を発表し、社長は減給も申し出るという形で責任をとっています。起こったことは僕もヒドいものだと思うし、この対応だけで許されるわけでは全くないけど、現在のところしかるべき対応はとっているというか、筋は通っているのではないでしょうか。(ていうか記者会見の映像見てたら守安さんを尊敬する気持ちと南場さんに対するいたたまれない気持ちが猛烈にこみ上げてきて泣きそうになったんですが皆さんどうだったのでしょうか…)

DeNAの内情について詳しくない人間が勝手なことを書いてはいけないかもしれませんが、今回の問題の要因になったのはごく一部の人達だけなのではないかという気がしています。第三者委員会では企業風土なども含めて原因の究明を行うようですが、少なくとも本書を読む限り、企業風土はむしろこういった問題を起こす可能性が低いものではないかと思います。過去にゲームで何度も社会問題化した経験は確実に活かされている印象を受けます。知的に優秀で仕事に熱心な人が集まる会社であることは間違いないと思いますので、誠実な対応で再起を図ってくれると信じています。

 

注: この記事は元々noteに載せていたものをタイトルを少し直して掲載しています。