夢は大きく歩みは手堅く

トリハダ代表 野島優一のブログ

休みのとり方

正しいのかどうかまだまだわかりませんが、独立してからの休みのとり方はざっくり「1週間に半休を2回とる」という形に落ち着きつつあります。


会社員を辞めて独立してから最初の2ヶ月くらいは、特に休みもとらずに毎日活動していました。が、すると時々、一気に疲れが出て頭も体も動かなくなってしまうことが何度かありました。しかも急に。で半日から1日くらい休んでようやく再始動という感じでしたが、フル稼働状態に戻るまではもっと時間がかかってしまっただけでなく、計画も崩れるので精神的にもストレスになりました。


創業期の起業家、あるいはフリーランスとして仕事をするということは、自分が動かないと仕事が何も進まないということです。仕事が進まなければ売上も立たないので収入も途絶えます。将来的な事業の成否というのが最大の問題であるとはいえ、まずは自分が何か行動することが、自分に収入をもたらすための必要条件だと思います。それにやる気にも満ちているので、やろうと思えば突っ走ることはかなりできます。


だからと言って猛突進を続けるわけにも行きません。事業の立上げは1週間とか2週間でできるものではなく長期戦なので、適度に休憩も必要です。そのため、数ヶ月あるいは数年先に向けて自分と事業の累積の成果を最大にする形で仕事をしていくのが正しいと考えています。何ヶ月もずっと休みなしの毎日16時間労働みたいなことは、世の中にはできる人も一部いるみたいですが、僕の場合は過去に激務を経験して、そこまではできないということがよくわかっているつもりです。ということは適宜休憩を挟んで、息切れせず、高めのパフォーマンスで仕事をずっと続けることが重要だと思っています。途中で突然体を壊して何週間も休むことにでもなったら最悪です。周りにも迷惑がかかります。


ということで僕も一旦、予期せぬタイミングで疲れが出て休まざるをえなくなることを防ぐため、週に1日休みをとるようにしてみました。土日は仕事の関係で行くべきイベントが多かったりするので、月曜とか火曜に休みをとっていました。が、今度はその日の夜、「明日、仕事か…」と憂鬱になるという信じがたい事態が発生しました。マンデーブルー的なアレです。


自分が生涯をかけて取り組みたいことが見つかったから、環境的に恵まれた会社での仕事を辞めて独立しました。基本的には仕事がしたくてしょうがないのです。やりたいことは無限にあって、それは仕事でもあるけど、自分が本当にやりたいことでもあるから楽しい。つまり仕事と遊びが一体のような感じになりつつあるのです(まだ完全に重なってはいませんが)。それなのに、その仕事を億劫に感じてしまった。その時は自分で自分に愕然としました。「あれ?俺はこれをやりたくて独立したはずなのに、なんでめんどくさいと思ってるんだろう?」。ウソだろと思いました。


それまで毎日楽しく取り組んできた仕事に憂鬱を覚えてしまった。なぜか? その原因は「休みすぎたから」ではないかというのが今の自分の考えです。丸1日休みをとって、仕事と関係ないことをし、ゆっくりしすぎたせいで、スイッチを戻すのが難しくなってしまった。


ではどうすればよいか? 「休むけど休みすぎない」ようにすればいいんじゃないかということで、次は半休をとるようにしました。まったく仕事をしない日を作らず、毎日少なくとも半日くらいは働くことで、スイッチを完全にOFFになることを避けているような感覚です。いや、完全OFFにするけどすぐにONに戻る前提でOFFにしているような感じかもしれません。


幸い今のところは、これでわりと上手くいっています。集中力も途切れすぎず、適度にリフレッシュもできています。1回だと疲れがとれきれないことがあるので、週に半休を2回くらいにしています。


今は事業の立上げ中、しかもすべての要素が不確定で試行錯誤しかないような状況なので、なるべく頭を常にフレッシュに保つようにはしています。毎日毎日疲れきっていては新しい情報もすんなり入ってこないし、新しいアイデアも出てきにくいと思います。


そろそろ会社を辞めて半年経つのですが、働き方について試行錯誤した結果、今はこんな形に落ち着いています。今の自分には合っているという意味ではこれが正しいと思っています。けど事業のフェーズが変わったり(というか変えていかなければいけない)、違う考え方に触れたりすることで、これからまた変わるかもしれません。

自分の頭で考える

「今僕たちにできるのは、新しいものを生み出す一度限りの方法を見つけ、ただこれまでと違う未来ではなく、より良い未来を創ることーーつまりゼロから1を生み出すことだ。そのための第一歩は、自分の頭で考えることだ。」

 

アメリカの大起業家であり大投資家のピーター・ティールの著作『ゼロ・トゥ・ワン』。何か新しいことをやろうとしている人間にはものすごく刺激になる素晴らしい本でした。

 

冒頭の文章はこの本の結びの一節ですが、ここに「自分の頭で考える」ことの大事さが説かれています。ちょうどこの本を読む少し前から、物事について自分の頭で考えることが重要なんじゃないかと思い始めていた自分としては、とても背中を押されたというか、自信を持てたのでした。

 

さらに言うと最近は以下の3つを大事にしています。

 

・自分の五感で感じること、体験すること(インプット)

・自分の頭で考えること

・考えたことを自分の言葉で表現すること(アウトプット)

 

これをするとしないで何が変わるかというと、説得力が大きく変わると思っています。何かもっともらしいことを話していても、どうも他で聞いた話をそのまま話していたり、自分の言葉で語れていなかったりすると、説得力に欠けます。同時に、自分の意見がない、あるいは中身のない人みたいな印象になりかねません。

 

そうではなくて、もっと自分の感覚を大事にしないといかんなと思うのです。

 

本で読んだことについて自分の頭で考える。よくわからない場合もできるだけ考えて判断する。で自分の意見としてストックする。あるいは、自分の目で見て、耳で聞いて、触ってみる。どう感じたか振り返ってみる。その上で、自分の考えや感覚を自分の言葉で説明する。

 

多少間違っててもこれで相当説得力が出るし、ちゃんと自分の頭で考えるのが習慣になれば、他人から見た印象も変わると思います。間違いについては、人間みんな完璧ではないので間違いがあって当たり前だし、そもそも他人からするとわりとどうでもよいことで、本人だけが意識しすぎているということも多いです。

 

3つとも、ビジネス云々以前に人として大事だなと思うこの頃です。

凡人は凡人であることを認めて地道に真面目に頑張るしかないし世の中ほとんど凡人である

「お互いに地道に真面目に頑張りましょう」。

 

これは塩野誠さんという方の著書『世界で活躍する人は、どんな戦略思考をしているのか?』に出てくる言葉なのですがとても印象に残っています。この方は経歴を見るとバリバリのスーパーエリートなのですが著書を読むと実に謙虚で学びが多いのでオススメです。自分が天才だとは全然思っていない相当な努力家と思われ、冒頭の一文には重みがあり、ああ僕も頑張ろうと素直に思ったのを覚えています。

 

天才と凡人で人間を二分するとすれば世の中のほとんどの人間は凡人に入ると思っています。天才の定義を聞かれてしまうと非常に難しいですが、仮に「インプットや努力が極端に少なくても成果を出せてしまう人」とでもしておきます。そうすると僕も全然そんなことできなくて、過去の成果は明らかに地道なインプットのおかげなので、自分は天才か凡人かというと確実に凡人だと常々思っています。

 

(ただ僕は学校の成績は良かったし、一浪したとはいえそれなりに試験が難しい大学に入ることができたという意味では、いわゆる地頭とか努力する能力はあったのだろうと思っています。ここで言っている天才はそういうのよりもっと上の次元の人のことです)

 

天才だったらとてつもない成果を出せたりとか、誰も考えつかないアイデアを思いついたりとか、他人には全く理解できないことができたりとかするのでしょうが、そういうことができる人はごくごくごく一部だと思っています。僕もそういうことはできないので日々インプットしまくって考えまくって何とかしてアウトプットするということを頑張っています。

 

逆に自分が天才じゃないと気づいたら後はもう努力するしかないわけです。それ以外に自分のアウトプットを高める方法はないんです。それをよく理解した上で、夢を日々なんとなくイメージするだけではなくて(それはそれで超重要だと思いますが)一歩一歩着実な行動を積み重ねることが必要だと思っています。

 

ネットを中心に世界中のスゴい人たちの情報が可視化されていると、ついつい彼らと自分を比べてしまったりします。記事になって紹介されているような彼らは本物の天才だったりするので自分との大きな差に凹みます。けど自分は天才ではないので彼らを比べても意味ないんです。彼らにはなれないんです。それを理解して自分の努力を積み重ねるしかないんですよねきっと。むしろそうすることが彼らに近づく唯一の方法なんじゃないでしょうか。

 

さらに言うと、そうして天才かのように見える彼らも実は大半は凡人なのではないかと最近思っています。めちゃめちゃ努力して毎日1cmでも1mmでも前に進むように歯を食いしばって何年も何十年も頑張ってきた人ばかりなのだと思います。仮にそうだとすればやっぱり自分は自分なりの努力を少しでも多く積み重ねていくしかないわけです。

 

有名な起業家の本はそれなりに読んできたし、ウェブ上に出ている記事も結構読みました。だいたい共通していたことは、「これをやればうまくいく」みたいな成功の法則はたぶん存在しないということと、最初はみんなあまり上手くいっていなかったこと、そしてみんなめちゃくちゃ努力した日々があった、もしくは今もしているということです。これはあくまで僕が触れたサンプルだけからの結論ではありますが、仮にこれが正しければ、自分だって最初は上手くいかなくても思いっきりやればある程度のところまでは行けるかもしれないということになります。頑張れば必ず成功するみたいな無責任な意見は否定するし、猛烈な努力は成功の十分条件ではないですが、かなりの確度で必要条件なんだと思います。

 

表向き華やかに見えるものも裏は普通に泥臭い、いや普通よりも抜群に泥臭いものなのではないかと。それなら泥臭く頑張ってみようじゃないかと。それで上手くいかなかったって死ぬわけじゃないし、少なくとも経験が残るので得るものはあると思っています。

アートに関心を持ったきっかけ

別にもともと絵を描いたり何かを作ったりするのが好きというわけでもなく、親族に芸術の素養がある人がいたわけでもなかったのですが、アートに強く関心を持つきっかけになったのは大学2年の時の経験です。

 

2年の終わりの春休みをまるまる使って、イギリス・スコットランドに語学留学に行きました。その時にロンドンとベルリンを数日ずつ旅行したのですが、そこで目にしたものがあまりにも強烈で、そこからアート、特に現代アートに関心を持つようになりました。

 

ロンドンでは、それまでギャラリーはおろか美術館にすらあまり行ったことがなかったのに、なぜか1泊2日で市内の美術館とギャラリーをひたすらまわるコースを組んでいました。というか当時は美術館とギャラリーの区別さえ付いていなかったはず…(注: スーパー簡単に説明すると、美術館は作品を保管するための場所、ギャラリーは作品を売るための場所という違いがあります。展示はどちらもやりますね)。なのになんであんなコースを組んだのかは今でも謎です。もしかしたら海外旅行 = 美術館巡りみたいなイメージがあったのかもしれませんがもう6年も前(と書きながら今にも転げ落ちそうな衝撃)のことなのであまり覚えていません。

 

でその時に見て強烈なインパクトを受けた作品が2つあります。どちらもテートモダンというロンドンの代表的な近現代美術館で見た立体作品でした。

 

作品1: 壁際に色とりどりの洗濯物のような布切れが高く積まれていて、そこにミロのヴィーナスのような古代ギリシャ系の白い石膏女性像が頭から突っ込んでいる作品

 

(画像見つからず)

 

作品2: スーツを着た男性の左腕が、ツーンとつま先まで伸びた状態で、やや上向きに壁から3本出ている作品

 

http://blog.art21.org/wp-content/uploads/2010/02/Cattelan_Ave-Maria-e1266602031488.jpg

画像見つかったので載せてみました。調べたらMaurizio Cattelanというイタリア人の作品だそうです。

Maurizio Cattelan, "Ave Maria," 2007. Courtesy of Danielle and David Ganek, © Maurizio Cattelan. Photo: Attilio Maranzano. | ART21 Magazine

 

ということでハッキリ言って、普通に見たらどっちも意味不明の作品なんです。僕も見た瞬間は頭の中に大きなクエスチョンマークが浮かびました。でも次の瞬間、一旦停止した思考回路が動き出して、「ん、ちょっと待て、なんかこれ面白いぞ」と思い始めたのです。

 

これがなんで面白いのかと言われると説明はできません。わけがわからないけどなんか面白いんです。もうちょっと見ていたくなるし、記憶の中に強烈に残るんです。わけがわからないけどどこか面白いという感覚は今でもすごく大事にしていますが、たしか初めて感じたのはこの時だったような気がします。

 

強いてもう少し感想を書けば、1つ目の作品の方はもう笑っちゃう感じです。なんだこれと。これ作ったヤツはアホなんちゃうかと。実際、近くにいた他のお客さんはクスクス笑っていましたし、その感覚もよくわかりました。

 

ロンドンではもう1つ、別のギャラリーで観た作品も印象に残っています。広い公園の中にあるギャラリーでした。

 

それは手術室を再現した空間作品でした。真ん中に手術台があって、周りに色々な器具とかアームがあって、たしかレントゲン写真を貼るパネルみたいなのもあったかもしれません。マジでこれも意味不明でした。「は? これってアートなの? どゆこと?」って感じでした。

 

これは先に紹介した2作品とは違い、作品として好きという感じとはまた違った印象が残っています。1点は、「あー、現代アートってこういうのもアリなんだ。こういうのが現代アートなんだ」みたいなことを感じさせてくれたことです。いや、ぶっちゃけこの作品が現代アートの中に位置づけられているのかどうかちゃんと理解したわけでもないし、どういう評価をされているのかも確認していません。でも、こういう一見わけのわからないものでも「アートとして提案する」ことができるんだ、ということを教えてもらったような気がしています。もちろん勝手な解釈ですが、きっとそれでいいんだと思います。

 

もう1点は、インスタレーション(場所や空間全体を作品とするもの)の展示の仕方というか、佇まいみたいなものが思い出されます。この作品は広い公園の中の白っぽい建物の中の展示だったので、すごく静かで、作品の中に含まれる電子機器の「ジーーーーー」っていう低い音だけがかすかに聞こえてくるんですね。冷蔵庫が時々発するあの音を思い出してもらえれば近いと思います。ふーん、こういう展示のしかたがあるんだなー、今まで体験したことなかったな、と思ったのでした。

 

続いてロンドンを離れてベルリンの記憶をたどります。そこは街じゅうが壁画で溢れる、オシャレでカッコよくて不思議なところでした。

 

こちらのアルバムをご覧頂くとよくわかりますが、あるエリアは立ち並ぶビルの壁にことごとく巨大な壁画が描かれていたりします。そのスケール感は圧倒的で、見つけるたびに口を開けてぼーっと眺めてしまうほど。迫力あったなぁ。

 

それから、グラフィティアートも数えきれないくらいありました。それなりに大きい壁にでっかく描かれているものもあれば、ゴミ箱、標識(!)、バス停の時刻表(!!)、墓地の壁(!!!)にまであったりしました。さすがに標識とか時刻表はただの落書き感もありましたが、とにかく街中のあらゆるスペースに何か描かれているような感じです。

 

あとは青空の巨大共同アトリエみたいなところでいろんな人が変なものを作っていたりとか、裏路地を歩いているとクッキーのかわいい自販機があったり、突然謎のオブジェが登場したりというカオスっぷり。ついでに言うとマーケットも不思議なものがたくさんあったし、変わった服屋とか雑貨屋もありました。

 

そういえばベルリンの壁の一部が残されていて、そこにもたくさんの絵が書かれていましたが、散策中に見つけたものたちの方がよっぽど面白かったです。街中にこんなにアートが溢れている都市もあるんだな、東京にはこういうエリアってないな、と思ったのでした。

 

 

ロンドンで初めて現代アートの面白さを、ベルリンではアート溢れる街並みの面白さを知ったのでした。当時は単に新しい世界を知った楽しさで頭がいっぱいでしたが、前者はそれから色々な展示を観に行ってハマっていくきっかけになり、後者は最近になって、日本でアートをもっと身近にするという目的意識につながっています。ひとつのモデルというか。

好きだという気持ちはちゃんと伝えないといけない、そしてできればお金も払って応援すべし

前回の続きです。引き続きテーマは恋愛ではありません。

 

何か自分がいいなと思うもの、好きだなと思うものがあれば、できる限りその気持ちを伝えるべきだと思っています。相手が人であればそれは活力になるし、相手がモノやコトであればそれに対する応援になります。

 

そして相手がそれを商売や仕事としている場合はできるだけお金を払うべきです。なぜならお金が払われないとその仕事が続けられずに終わってしまうからです。

 

たとえば1回行ってお気に入りになったレストランやカフェがあるとします。ある日その店が閉店してしまって、「すごく良いお店だったのになんで…」と思ったりすることがあります。けど多くの場合、理由は明白で「客が来なかったから」、「儲からなかったから」ということです。もちろん他の事情で閉店せざるをえなくなるケースもあると思いますが基本的にはコレだと思うんです。で、自分の行動を振り返ってみると、結局最初の1回しかお店に行ってなかったりする。お店が閉まってしまったのは自分がそこに行かなかったからとも言えます。続けて欲しかったらなるべく行くべきです。

 

ここで想定しているのは主に個人経営だったりする小さめのお店ですが、これについてはチェーンの飲食店がかなり安くてそれなりに美味しいという問題があって結構難しいです。牛丼屋、ラーメン屋、中華屋、ファミレス、居酒屋、などなどどれも有名チェーンが強いです。でも自分の好きな店に残って欲しければなるべくその店に行くべきです。

 

服屋も同じだと思います。ユニクロH&MBEAMSだけで服を買っていると街の小さな服屋さんはバンバン潰れていくと思います。好きな店があればなるべくそこで買うべきです。それはそのお店に対する応援でもあります。

 

そして、お店から視点を移して音楽やアートの世界を見ても似たような話です。

 

ミュージシャンは、自分たちの音楽にお金を払ってくれる人がいてはじめて生活ができるわけです。いや正確に言うとそういう人は少なくて、それだけでは食えないから他の仕事をしながら活動している人が圧倒的に多いと思います。だからファン一人ひとりがライブに行ったり、CDを買ったり、ダウンロードで購入したり、路上で投げ銭したりするその1円1円が彼らの活動を支えているんです。彼らの音楽をSNSで紹介したりクチコミで広めたりすることもとても大きな支えですが、やはりお金は非常に大事です。好きなミュージシャンが活動を終了してしまった時、自分は彼らをどのくらい応援できていたか? そしてどのくらいお金を払っていたか? と振り返って後悔することのないよう、声援でもシェアでもお金でも彼らを応援しておくと自分のためにも良いと思います。

 

芸術家も近いと思います。作品を見に来てくれる人がいること、そして作品を買ってくれる人がいることが彼らの活動を支えるわけです。だから好きな芸術家がいたら、できたら作品を買うべきだし(購入よりも金額を抑えられるのがレンタルだと思っています。これからやります)、金額的に難しければグッズを買うとかすることを強く薦めます。僕もなるべくそうするようにしています。芸術家本人がその場にいれば感想も伝えるべきです。後からメールするとか、twitterでメンションするだけでもいいと思います。必ず応援の声として伝わるはずです。

 

直接会った芸術家の人数がまだまだ少ない僕がこんなことを言ったら文句がつくかもしれませんが、芸術家も人間なんだと思うんです。彼らだって、自分の作った作品が人々に受け入れられるのか不安だったりするんです。特に駆け出しの人なんて完全にそうで、毎日毎日その不安と闘いながら制作を続けていると思います。そんな彼らに「あなたの作品が好きです」と言ってくれる応援者が一人でも現れればものすごく大きな力になるはずです。誰だって認められたい。反応が悪かったり、あるいは無反応だったりすればヘコむし、褒められれば嬉しいし自信がつく。そういうものだと思います。だからこそ、いいなと思う気持ち、好きだと思う気持ちはできるだけ伝え、できれば、少しでもいいからお金も使うべきです。それが相手の活動を支えるわけです。結果的に自分がその人の作品をより長くより多く楽しめることにもなります。

 

食えなくて辞めてしまうミュージシャンや芸術家は本当に多いと聞きます。ファンだったら支えましょう。活動してほしかったら支えましょう。できる範囲でいいと思います。

 

(ただし、ぶっとんでる人が多いという意味で、音楽含めて芸術の分野は、活動継続に本人の意向も大きく絡んでくるであろうことを書き添えておきます)

 

とはいえ日本では、芸術家とコミュニケーションをとる機会も、アートにお金を使う文化もまだまだ足りない、というかポテンシャルありありだと思っています。なんとかしてその解決につながる仕組みを作って、一人でも多くの芸術家の活動継続につなげたい、そして一般の人にアートを浸透させたい、と思って会社を作ったのがこの春です。トリハダという会社です。

好きだという気持ちはちゃんと伝えないといけない

別に主題は恋愛ではありません。

何かに対して、あるいは誰かに対して、「好きだ」とか「いいな」と思う気持ちは、できる限り相手に伝えるべきだと常々思っています。理由はそれが相手にとって嬉しいからです。

例えばある人にすごくお世話になったとします。仕事で、転職で、人間関係で、などなどなんでも良いです。すると普通はその人にお礼を言いますよね。言葉で伝えたり、何か贈ったり、ご飯をご馳走したりします。お礼された方は、自分がやったことに意味があったんだな、やってよかったなと思えるわけです。

普通はこうなると思うのですが、時々お礼を伝えそびれてしまう時もあります。それは、相手が先輩だったりすごい人だったりして気後れしてしまうとか、お礼を言おうと思ったのに感極まってしまって何も言えなくなってしまうとか(極端な例)、あるいは後になってお世話になったことに気づいたとか。こういう場合は、相手が「自分がしたことが誰かのためになっていた」ことに気づいていないということが起こりえます。特に最初の例なんかだと、相手はなんとも思っていないなんてこともよくあります。

そういうのはすごくもったいないので、後からでもちゃんと気持ちを伝えるべきだと思います。それは相手にとって嬉しいし、「これって人のためになってたのか!」とか、「自分のこういう性格は長所なのかもなぁ」とかいった発見になることもあると思います。

私の身近な例で言えば、大学4年の時に運営した企画に後輩として参加してくれた人がいたのですが、開催中も後も全然絡みがなかったのに、「実はあの企画はすごく自分にとって意味があったんです…」みたいな話を最近になって聞きました。これは自分にとっては大きな発見でした。しかもすごくポジティブなことだったので聞いて嬉しかったし、その企画も結構手のかかるものだったので、すぐに運営の中心だった友人に「なんかいい話聞いたよ!」と電話して一緒に喜んだりしました。あの時頑張ってよかったな、意味があったんだなと素直に思えた瞬間でした。

それから逆の立場の例では、以前会社でお世話になった上司が「自分も将来こんな上司になりたい」と本気で思うくらい良い上司だったので、後から全力でお礼のメールを送ったりもしました。私がその人の上司としてのスタイルがとてもよかったと思っていることは、伝わったと思います。

さらに卑近な例をあげればfacebookの「いいね!」も、twitterリツイートやお気に入りも同じです。ある人の投稿を見て、いいと思ったらバンバン「いいね!」を押すべきだと思っています。押された方はそれが活力になります。私の場合は趣味で自分の好きな曲をよく投稿していますが、そこに「いいね!」がくるとやっぱり嬉しいし、誰かにプラスになったと思えるし、また次回も投稿しようという気になります。逆に「いいね!」ゼロが続いたりすると「誰もこんなの見てないよなーやっぱやめよっかなー」と思ってしまいます。このブログも同じです。「いいね!」とかシェアの数は、自分の言っていることが支持されている、あるいは応援されているという印象につながります。それが全然ないと萎えます。ただ発信者側の問題としては、たとえそう思ってもしばらく続けることで上手くいくこともあるので、粘り強さがすごく大事です。

お礼の気持ち、いいなと思った気持ちをちゃんと伝えれば、相手にとっては普通は嬉しいし、活力になりえます。その内容によっては、相手の人生が変わるような発見をも与えられるかもしれません。

以上すべての話がビジネスにもアートにも通じるという話を書こうと思ったのですが長くなったので次回に続きます。

アートの市場を拡げたい

市場を拡げる仕事をしたいと思っています。

 

まだデータをとったわけではないですが、日本における美術や芸術の市場はかなり小さいのではないかと思っています。小さいというのは、国内の他の産業(なんでも、たとえば飲食業とか)や、近しいところでは国内のエンタメ産業(音楽とか映画とか)、あるいは欧米各国の芸術市場と比べて、です。とはいえ私もまだまだこの世界について勉強中なので、「そんなことないよー」という方はぜひ教えてほしいです!

 

市場を「その分野で出回っているお金の量」、つまり「その分野に人々が払っているお金の量」と考えると、そもそも芸術分野にお金を使っている人は自分の周りにもかなり少ないし、その金額はたかが知れています。「アートが好き」と自覚している人でさえ、年に数回有名美術館に行って、入場料とグッズで1回2,000円くらい使うだけだと思います。それだと年3回行っても一人あたり6,000円です。でもそれって、ちょっといいレストランでご飯食べてお酒飲んだときの1回の金額です。しかも年3回美術館に行く人の数だって決して多くないと思っています。

 

誰ひとりとして美術館に行かないような状況と比べたら、たくさんの人が美術館に行くこと自体は素晴らしいと思います。でもそれだけでは市場は広がらないし、プロモーションをやった広告代理店くらいしか利益が出ていないかもしれません。事実、調べていくと有名美術館でさえ経営は楽でないらしく、だからこそ国立や都立などの公営施設が多いのだと思います。

 

もちろん、美術館によく行くだけでなく小さなギャラリーを回ったりするのが好きな人もいます。けどたぶん相当少ない。僕の周りにもほとんどいません。これを読んでくれているあなたの周りにはどれくらいいるでしょうか? 「うーん1人も知らないなぁ」という人も結構多いかもしれません。

 

ギャラリーに行く人が少ないということは、ギャラリーで開かれている個展に来る人が少ないということです。それは、個展を開いているアーティストのお客さんが少ないということです。つまりお金を払ってくれる人が少ないということであり、アーティストが食べていけないということです。

 

これも最近たくさんの人に話を聞いてわかってきたことですが、個展を開くのにもかなりお金がかかるんです。まず当然、作品を作るための画材のお金がかかります。これも決して安くないので、なるべく安いお店を回ったりして節約するわけです。次に額装、つまり額縁のお金がかかります。これはモノによりますが結構かかります。作品のサイズが大きい人は画材も額縁も高くなります。そしてそこにギャラリーの使用料がかかります。1日いくらという形で価格が決まっているところと、作品の売上の何割を支払うという形のところがありますが、どちらも安くはありません。当たり前ですが立地のよいギャラリーであれば家賃が高いので使用料も高くなります。かといって激安のところでばかりやっていては、大通りから隠れているなど立地が悪くてお客さんが全然来てくれない可能性もあります。

 

別にギャラリーを悪く言うつもりはなく、むしろギャラリーの存在はアーティストにとっては非常に重要だと思います。ギャラリーがなければそもそもどこで個展をやるのかという話になります(ただしこの問題はこれからトリハダが全力で解決を進めます)。それに大半のギャラリーはアーティストを応援する気持ちの強いオーナーさんが運営されていると思います。一部そうでないところもあるらしいですがきっと自然に淘汰されているはずです。そしてもうひとつ重要なのはギャラリーも決して経営が楽なわけではないということです。アーティストからすると高めの価格設定になっていても実はそれでギリギリで、むしろ儲からないケースが多いらしいです。つまりそれも、要するにアートの市場があまりにも小さいということなのではないかと思います。

 

そんな中で、その小さい市場を食い合うようなことをやっても仕方ないと思うのです。いや、仕方ないと書くと言いすぎかもしれませんが、芸術の世界にみんながもっとお金を払うような仕組みを作ってパイを大きくしていくことの方が、ずっとずっと重要だと思います。だからそれをやりたい。

 

既存の市場の中で既存の他のプレイヤーからパイを奪うというのは、自分あるいは自社の成長はできますが限界が見えています。特に今の日本のアート市場のような小さい市場の中ではなおさらです。しかも他のプレイヤーから奪うというのは彼らにとってはマイナスなわけです。だったら自分でパイを拡げて、そのパイを享受した方がいいし、拡がったパイを他のプレイヤーに享受してもらうこともできます。誰かが得すると他の誰かが損をするというゼロサムの環境でゲームをするよりは、全プレイヤーにプラスをもたらす環境を作り出す方がいいはずです。とはいえ、それが難しいからこういう状況になっているのだと思いますが…。

 

芸術の市場を拡げて、この世界により多くのお金が流れるようにしないと、アートの世界が広がらないし盛り上がらないし、アーティストの数も増えません。